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黒沢清監督 「トウキョウソナタ」 2008 レビュー ネタバレあり

黒沢清監督 「トウキョウソナタ」 2008 レビュー ネタバレあり

家族の解体

 家族の絆。一家団欒。そんなものはもう失われた、と黒沢清は言いたいのではない。もとからそんなものは「あまり」なかったということを、ドライにそして少しユーモラスに提示してみせているだけだ。両親がいて子供がいる。しかし、そこに親子の代えがたい愛情があるとは限らない。むしろ性別や年代の離れた者どうしでは感性が異なっているので、反発しあった上に離散していくのが通常だろう。

 小泉今日子は、そのことを理解している。香川照之は、昭和の家族像を普遍だと思いこむことで、自分をごまかしている。一家の大黒柱である父親と専業主婦の母親。父親の威厳は絶対で、夕食時、父親より先に箸をつけてはいけない。父親は子供の願望を簡単に許可してはならず、一度決めたことは決して撤回しない。

 明治~昭和の約100年間、日本の高度成長期において、このモデルは有効だった。人口を増やし、経済を拡大するために、家族は画一なモデルを遵守し、人々は惰弱な多様性のなかで迷走するより、国家の目標に殉じるほうがわかりやすかった。

 わずか100年続いただけのモデルはあっけなく崩壊し、日本もダイバーシティを尊重する時代になった。男女差別は最大の禁忌となり、LGBT以外の性的マイノリティも尊重しなければならない。法律と最低限のモラルさえ遵守すれば、人は完全に自由で、職業選択も居住地も全く拘束されない。

 しかし、家族の絆というものが完全に否定されたわけではなく、ある程度は存在してもいい。映画ラストの素晴らしいピアノ演奏が、そのことを優しく物語る。

 小泉今日子の突出

 デビューから現在に至るまで、小泉今日子を悪く言う人はほとんどいない。1980年代、トンがったアイドルとして時代を闊歩したKyon2。渋谷系のサブカルなセンスを纏いながら、大企業がこぞって起用するCMの女王でもあった1990年代のコイズミ。離婚も経験し、中年を過ぎても美しく、自然体の女優であり続ける現在。

 ブレない、自然体、媚びない。まさに日本中から大絶賛である。

 しかし、この彼女のフィルモグラフィーが、名作、名演ばかりかというと意外とそうでもない。カメオ的な客演が多いし、主演作もありがちなキャラクターしか創出できていない作品が多い。

 そういう意味で言うと、「艶姿ナミダ娘」「ヤマトナデシコ七変化」「なんてったってアイドル」などの時代に創出してみせた、全く新しいアイドルとしての型破りな存在感や、渋谷系の名作群のなかでも最高峰に位置するアルバム「Afropia」で成し遂げたレコーディングアーティストとしての到達に比べて、映画女優としての彼女はまだそれほどの存在になっていない。

そんな彼女の潜在能力を巧みに引き出したのが、「トウキョウソナタ」の黒沢清だ。黒沢は小泉のパブリックイメージを踏襲させながら、より深化した彼女の虚像を見事に引き出し、いつもの黒沢清の世界とはやや異なる色合いを創出することにも成功している。

香川照之や役所広司が通常の黒沢的世界の象徴であるならば、小泉はあくまでコイズミだ。美貌は健在だが、若いころの輝きはさすがに衰えている。しかし自然体の彼女はそんな衰えにあまり頓着せず、気だるさと可愛さを巧みに同居させた色気は、なかなかに抗いがたい。夫の香川との間にもう男女の機微は存在しないが、長男の小柳友とは恋人どうしのような会話を楽しんでいるし、強盗の役所広司の侵入によって、一気に中年女のなまめかしさを漂わせる。

 役所との頓珍漢な逃避行を切り上げた彼女は、早朝の我が家に戻ってくる。朝帰りの気だるい足取りと、鮮やかな朝日の取り合わせは得も言われぬリセット感を与えてくれるものだ。目黒区の狭い路地を歩く彼女の表情も、怠惰な晴れやかさを表面上は見せているのだが、その深部には、得体のしれない虚無が確実に仄見えていて、この上もなく怖ろしい。

 香川照之の名演

 小泉から引き出した得体の知れない虚無。これこそ黒沢清の最も愛好するものだろう。「CURE(1997)」萩原聖人のタメ口。「アカルイミライ(2003)」浅野忠信の指差し。「叫(2006)」葉月里緒奈の赤いワンピース。「散歩する侵略者(2017)」松田龍平の無表情。

 得体の知れない虚無は、ユーモラスに半笑いを誘う。その人の人となりやその場の状況から少し外したヘンな振舞い。

 この手の演技を最も得意としているのが香川照之だ。30年に及ぶキャリアのなかで、様々な名演を残している、日本映画史上に残る名優だ。「ゆれる(2006)」の気の弱い兄。「クリーピー 偽りの隣人(2016)」の連続殺人犯が特に忘れ難い。

 社会へ器用にアダプトできず、それでも藻掻いている人物。藻掻けば藻掻くほど、情けなくも悲哀な情感を醸す。そんな振舞いを続けていくことに耐え切れず、時に暴発するのだが、悲しいことにその暴発の威力は小さい。しかし、威力が小さかろうが不法な暴発は制裁を受ける。

 「トウキョウソナタ」の香川は平凡なサラリーマンなのだが、ある日あっさりと解雇される。この映画が公開された2008年とは、大企業がこぞって大量解雇を行っていた、不景気の真っ盛りの時代だった。特別なスキルを持たない香川は再就職に悉く失敗し、ショッピングモールの清掃の職に就く。この間、リストラされていることを家族に隠しているのだが、実はバレている。

 清掃の仕事中にバッタリ小泉と遭遇してしまった香川は、何を思ったのか、走って逃亡する。何の目的ももたず、とにかく走り続ける姿は、とにかく無様だが、無垢な少年のようにも見えてくる。サラリーマンとして、夫は父として、家族の家長として。社会にアダプトしてきたつもりだが、そんなメッキは簡単にはがれてしまう。しかし、2008年当時でなくても、完璧に社会にアダプトしている人間など存在するのだろうか?アダプトしているようなふりをお互いにしないと、コミュニケ―ションすら取りにくいので、そんなフリを小さくしてはいるが、そんな適合能力など自分にないことは、みんな理解している。

 だからこそ、走り続けた上に、車に轢かれ、道路端で枯葉に埋もれても、朝が来れば、粛々とと目黒の自宅へ帰っていく。

 黒沢清の希望

 朝帰りするのは、香川/小泉夫婦だけではない。次男の井之脇海も、家出をもくろんだのか、長距離バスへの無賃乗車を企みる。警察に補導、釈放され。自宅へ帰ってくる。まだ小学生の井之脇にとっては初めての朝帰りだろう。

 しかし、家へ帰ってみると朝帰りを叱るはずの両親はいない。それどころか、父/母別々に、疲れ切った風体で朝帰りしてくる。やがて始まる奇妙な朝食。

リストラ、交通事故、強盗未遂、無賃乗車未遂。そんなものはたいしたことではない。米軍の外人部隊で迎える戦死すら、世界からすれば些末な日常だ。朝が来れば食事をして、疲れていれば眠ればいい。家族が一緒にいようが、離れていようが、社会は鈍感に動き、そんなに激動などしない。ただただ、耐えがたい虚無が塗りこめられているだけだ。

虚無。これこそが、世界でいちばん怖ろしい。

小泉今日子の薄笑いに宿る虚無。米軍へ志願する小柳に世界を守る義務感などない。おそらく虚無に突き動かされているのだ。そして井之脇の素晴らしいピアノ演奏にこそ、いちばん多くの虚無が棲息している。

ただ大丈夫。虚無とは共存できる。黒沢清が言いたいことは、これだ。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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