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和田嘉訓監督 「コント55号 世紀の大弱点」 1968 レビュー

和田嘉訓監督 「コント55号 世紀の大弱点」 1968 レビュー

日本映画爛熟の境地

 観客数のピークは1958年。敗戦によってリセットされた社会は、ハングリーな活気を呈した。1960年代に突入すると、社会の安定度は戦前の水準を超える。加速する成長のベースになったのは、一体感だ。みな同じことを考え、同じ方法論で行動した。

 一体感を創出したのは、テレビだ。映画は、テレビ的な親近感をプログラムピクチャーに導入した。当時のテレビ的な一体感を象徴するのが「コント55号」だ。「コント55号 世紀の大弱点」は主演映画第一作である。

 27歳の萩本欽一は、アドレナリン満タン。坂上二郎をサンドバッグにして、フニャフニャと小躍りする。週刊誌記者の萩本、カメラマンの坂上のコンビは、遅筆の老作家(由利徹)に夜の接待をするが、原稿は進まない。編集長(天本英世)にどやされた萩本は、偶然入手した無名作家(上田吉二郎)の小説原稿をキャバ嬢(水木洋子)の処女作として発表する。ライバル誌の敏腕記者(真理アンヌ)は、ロック歌手(内田裕也)と組んで、水木の正体を暴こうとする。上田/水木の第二作を天本に催促される萩本と坂上は、自ら執筆することころまで追い込まれる。

 小説がベストセラーになった時代。日々の単調な労働の後、人々は小さな現実逃避をフィクションに求めた。小説が金になることに躍起になった出版界のモンキービジネスぶりを、ドタバタ喜劇化した傑作が「コント55号 世紀の大弱点」だ。

萩本欽一のマニックな暴走

 映画は、団地の朝から始まる。勤め人の男女が通勤するなか、はっちゃけた萩本は、坂上の頭をはたきながら、短い手足を拡げて走る。未だ「欽ちゃん走り」ではなく、単にバカっぽくバタバタしているだけだ。そんなことでは、会社に遅刻する。

 編集長の天本に叱られる萩本。由利に原稿を書かせようとする萩本。キャバクラでママと話す萩本。主演俳優として、面白いキャラクターと絡むのだが、基本的にコミュニケーションをとっているように見えない。相互理解という概念がないのか。他人には全く興味がなく、ただ意味なく騒いでいるだけ。この暴走は、映画から意味性を完全に剥奪する。

 スラップスティックを模したのかもしれない。しかし、チャップリンをはじめ、米国のコメディアンは、もっとスタイリッシュだ。ウィットとユーモアで人を笑わせるスノッブだ。しかし萩本は、笑わそうとすらしていない。

寝ぼけた顔した童顔の若者。頭が切れそうでもないし、女にもてそうでもない。この超絶意味なし野郎が、わけのわからない狂気を炸裂させて、スクリーンを疾駆する。萩本欽一こそ、日本映画最強のアナーキストだったのだ。

1960年代の勢い/現代の衰退

 間抜け面の若造が、うだつの上がらないおっさんの頭をはたく。誰もが無意味にバタバタしている。何故か? 儲かるからだ。なぜ儲かるのか? 人が増えているからだ。1967年に日本の人口は1億人に達した。55年間で倍増。第二次大戦で300万人亡くなっているにもかかわらずだ。むしろ、戦争があったからこそ、ベビーブームが起こった。ベビーブーマーは、戦後のアナーキーな勢いに乗じて東京を闊歩した。世代交代によって社会がリセットされ、新しいものがどんどん生まれていく。「コント55号 世紀の大弱点」はその渦中のドキュメントだ。

 いま、日本は停滞を続けている。自粛の蔓延のせいで、停滞どころか後退し始めた。社会インフラが整備されているので、ハードに惨めな姿は露呈しないが、ソフトにズブズブ沈んでいる。街は清潔になった。便利になった。貧乏でも、そこそこ快適に過ごせる。この最低水準はそうそう崩れない。快適なズブズブに苦痛はない。

 政府の自粛要請に、中長期的視野はない。単なる事なかれ主義だ。1億2千万人中1,000人の死者。こんなものが脅威であるわけがなく、自粛など全く必要ない。バカげた政策や倫理は、アナーキーな若者に打倒されるべきなのだ。もしパンデミックが拡大すれば、どうなるのか? リセット。

 自粛という愚行は、米国リベラルから派生している。「コンプライアンス」というやつだ。黒人はもはや差別されていない。LGBTへの理解を拒むことは絶対できない。「オリンピック」は差別用語なので「オリンピック/パラリンピック」と言わなければならない。

 GAFAもリベラルだ。国家を忌み嫌い、世界はグローバルスタンダードに統一すべきだと思っている。安倍内閣や小池都知事は、このリベラルな倫理/論理に何となく追随しているに過ぎない。まったく欽ちゃん、「なんでこうなるの?」

ビザールな助演陣

 天本英世は死神博士だった。ショッカーを率いて仮面ライダーを苦境に陥れる、悪の化身だった。当時私は、死神博士は実在すると信じていた。日本のどこかに潜んでいて、世界の破滅を目論んでいることを想像し、底知れぬ恐怖を感じた。何故首相はこの危機と戦わないのか、怒りを覚えた。「殺人狂時代(1967)」の溝呂木博士は、もっと怖い。萩本や坂上は、天本編集長にしょっちゅう怒られるが、その怖さは、人間に怒られる怖さとはちょっと違う。

 絶世の美女、真理アンヌ。新宿を歩いているような女ではない。イスタンブールの酒場の踊り子だ。ローラ、またはマサラムービーの踊る女優。アングロサクソンの怜悧な気品も、日本人のキュートネスも美しいが、真理のエキゾチックな美貌は、スクリーンに一層映える。「殺しの烙印(1967)」こそ、無機質な都会と美女の桃源郷だ。

 内田裕也29歳。日本映画最強の怪優は、中途半端な若造だった。60年代風俗の一つである「ロック枠」での出演。クラブ風ステージでの歌唱シーンも堪能できる。萩本や坂上と比べれば、長身で痩身な内田は二枚目であり、実際に水木や真理をモノにする。しかし、後年のどす黒い情念は微塵もなく、もともと裕也さんはカッコつけたい人だったことがよくわかる。

団塊とリセット

 「団塊の世代」という言葉がある。「団塊の世代」が奔放に活躍したのは1980年代だ。日本経済の絶頂期、サラリーマンたちは、猛烈に働きながら、不埒に遊んだ。小田和正やビートたけしのような繊細な才能は、爛熟した世相を巧みに掴み、サクセスした。萩本欽一は、時代遅れになりかけていた。高度経済成長と同期して育った彼等は、反権力のポーズを好み、わがままな感性をメディアで増幅した。現在に至る日本の基本ベースを築いたのは、彼等だ。

コント55号や助演陣は「団塊の世代」より少し上の年代だろう。焼跡の荒廃とリセットの高揚感を記憶している彼等に、建設的な態度などない。てんでばらばらに、金と快楽へ奔走しているだけだ。何かを後世に残そうなんて思っちゃいない。社会のために我慢したり、自粛したりすることなど、絶対にしない。瞬間がすべて。明日のことなど知ったことか。

「コント55号 世紀の大弱点」に意味など全くない。ただどんくさいだけの坂上、無意味に怖すぎる天本、無意味に美人すぎる真理、既にロックンロールの脆弱性を露呈していた内田。後年の全くつまらない「欽ちゃんファミリー」と違って、自分勝手に疾走するビザールたちを従え、真空のアナーキー大将、萩本欽一が、完璧に無意味なパワーを垂れ流す。

ラストシーンは新宿西口。大勢のオーディエンスが、コント55号のバカ走りをただ観ている姿が映り込んでいる。阿呆な観衆たちはかなり三密状態だが、当然マスクなどしていない。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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