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市川崑監督 「吾輩は猫である」 1975 レビュー

市川崑監督 「吾輩は猫である」 1975 レビュー

俗物のおしゃべり

俗物とは、世間に漂う人だ。自らの信念を持たず、常に空気を読む。「吾輩は猫である」は、夏目漱石が俗物を風刺した小説である。

 中学教師の仲代達矢は、妻(波乃久里子)と三人の子供と共に、雨漏りのする安普請の家に暮らしている。この家に、さして用件もなく訪れる伊丹十三、岡本信人、前田武彦、篠田三郎。俗物たちは、愚にもつかないことをのんべんだらりと喋っている。波乃は、夫と来訪者を少し軽蔑しながらも、受け入れている。

 女性の俗物陣は、男性より攻撃的だ。実業家(三波伸介)の妻(岡田茉莉子)と娘(篠ひろ子)、琴の師匠(緑魔子)は、仲代を痛烈に皮肉り、こきおろす。男性陣と女性陣が交わることはあまりないが、唯一直接対決するシーンがある。

岡本と篠の縁談が持ち上がりそうな気配を見て、岡田は、岡本を良く知る仲代を訪ねる。偶然居合わせた伊丹も含めた女1対男2の戦いは、岡田の圧勝に終わる。

特に面談の内容に勝ち負けがあるわけではないが、岡田の迫力は名優二人を大いに圧している。この縁談は整うことなく、篠は左とん平と婚約するのだが。

 俗物たちのおしゃべりは、あまりポジティブには傾かず、社会の在り様を批評する。誰かの悪口で溜飲を下げる。こうした風潮は、明治も令和もさしてかわりない。

男優の競演

 主演の仲代達矢は、煮え切らない人物を巧みに演じる。煮え切らなさに仲代独自の軽妙な味がある。「殺人狂時代(1967)」が想起される。しかし、「鍵(1959)」、「他人の顔(1966)」、「女王蜂(1978)」のように怜悧な人物を演じる際も、仲代にはどこか、なよなよとした質感が混ざっている。

本作での仲代は、校長に反抗したり、近隣の中学生に篭絡されたり、姪(島田陽子)の入浴姿にドギマギしたり、いかにも幼い。しっかり者の波乃に助けられて、なんとか家族を成立させているのだろう。

 伊丹十三は、本人のキャラクターに近いスノッブなインテリだ。「妹(1974)」が想起される。頻繁に仲代邸を訪れるが、特に目的などない。単細胞の仲代に気の効いたツッコミを刺すのが愉しいのか。特に目的もなく漂ってはいるが、世間知や教養は深く、頭のよさそうな人物。仲代と伊丹の掛け合いは相性良く、名優二人のコラボによる名人芸を堪能できる。

 校長を演じる岡田英次は、戦後復興期の日本映画を支えたスターだが、いかつい顔つきには、異形の怖ろしさが宿っている。単なる中学校の校長ではなく、何か大きな悪事を企んでいる男かのようだ。「君よ憤怒の河を渉れ(1976)」の精神病院の院長がそうであったように。

女優の競演

 1975年は、もうテレビ時代になっており、テレビ出身の俳優も多かったが、そんななか映画俳優の貫禄を見せるのが、岡田茉莉子だ。当時42歳の岡田だが、18歳のデビューから百数十本の映画に出演し、成瀬巳喜男、小津安二郎といった巨匠の薫陶を受けた大女優の存在感は、唯一無比である。

和服の着こなしも堂々たるものだが、着物が象る女性らしい身体の曲線には、熟れた官能もある。若々しい美しさでいえば、27歳の篠ひろ子や22歳の島田陽子には適わないが、年輪を重ねた女の強さと弱さを、貫禄十分に体現している。

 岡田と篠の母娘は、いかにも意地悪そうだが、そのとおり、篠は常に不貞腐れているような女だ。裕福な家に産まれたことや、自らの美貌を迷いなく鼻にかけている。

しかし、篠のような意地悪な女は、仮面の裏では男のストレートな愛情を切望している。茫漠とした岡本より、実行家の左を選んだのも首肯できる。

島田陽子は、この映画で唯一俗物でない人物だ。人の悪口など決して言わず、慎ましやかに朗らかな娘。往々にして映画はこうして美人を引き立たせる。彼女の美貌はまさに完璧だが、その声も美しい。高く透き通った声は、俗物たちを超越して、清冽に宙を行き交う。

金田一シリーズへの布石

 翌1976年から市川崑監督の金田一耕助シリーズが始まったが、一作目「犬神家の一族(1976)」のヒロインが島田陽子だ。ここでも島田は、遺産相続と色欲に蠢く俗物一族のなかで、超然と清純さを貫いている。更に「吾輩は猫である」の島田と共通するのは、見え隠れする、したたかさだ。彼女は吉永小百合のような妖精ではなかった。

 仲代達矢は4作目「女王蜂」に出演した。「吾輩は猫である」の中学教師とは違い、遠謀の野心家を演じたが、少し芝居がかった振舞いは本作を部分的に踏襲している。岡本信人は、すっとぼけた芸風を更に洗練させ、神山繫は浮薄にインチキな男を独自に造形した。

 市川崑は、日本家屋の撮影に磨きをかけた。「吾輩は猫である」の仲代邸は、裕福ではない教師の家として、明治人の質素な生活を彷彿させる。文化財に指定される建築でなくても、日本の普通の家屋は、光と闇を存分に孕み、木材の朽ちていくさまにも独特の風合いがある。電灯の照度が低い明治には、部屋の隅々まで光は到達せず、自然の闇が残存していた。闇には、虫や小動物が蠢いており、人間だけの棲み処ではなかった。そんな家屋に、猫はのっそりとやって来る。

 「獄門島」、「病院坂の首縊りの家」に登場する旧家。「悪魔の手毬唄」の山村の鄙びた旅館。金田一シリーズに忍び寄る血縁と因襲は、これら趣深い日本家屋を舞台に猟奇殺人へと変化するのだ。

スタイリッシュな構図とカッティング

 猫のナレーションは、ラストの溺死シーンのときだけ発せられる。映画「吾輩は猫である」は、猫の眼から見た滑稽な人間をそれほど描かず、あくまで人間を主体に展開する。

猫は、少女的に可愛らしい存在とは見なされていない。市川崑は、猫の眼を通す、といった原作の構図を捨象し、力量高い俳優たちの伸び伸びとした演技を強調した。素晴らしいパフォーマンスは独自のアンサンブルを産み出し、一級のコメディーは現在にまで時代性を超えている。

 この会話劇は、ほとんど仲代邸で繰り広げられるが、このような密室劇の場合、長回しと長台詞の演劇的スタイルを採る監督が多い。しかし、市川の真骨頂は、鋭いカッティングだ。目まぐるしくカットされた、遠近の構図。短く曖昧な返事の応酬。会話の長さについて人間の生理の持続する長さは、LINE程度なのだ。

 会話の主役が脚本家ならば、構図の主役は撮影監督であり、映像のリズムの主役は編集者だ。静止画をベースとして遠近の妙味を撮影し、観客が飽きる寸前でスパッとカットする。市川崑最大の魅力である、スタイリッシュな構図とカッティングの切れ味は、ここでも存分に発揮されている。

明治と令和

 明治こそ、激動の時代だった。変化のスピードは令和の比ではない。明治維新以降、政治体制も大衆文化も大幅に変貌した。ついこの前まで、ちょんまげを結っていたのだ。しかし、庶民の生活の心持ちは、そうそう変わるものではない。日本人は争いを好まず、積み重ねられた常識を無意識に踏襲し、呑気に暮らしていたし、今でもきっとそうだろう。

 緊急時代宣言は常態化し、特に「緊急」ではなくなっている。政府の対策は大いに矛盾を孕んでいるのだが、人々は、感染の恐怖や過剰な自粛のなかで、それら全てをひっくるめてコロナ禍を受け入れている。日本人は冷静だが呑気なのだ。自らの信念など特にない。文句を垂れながらも、世間の風潮をなぞって、ルーチンをこなして生きている。仲代家や仲代邸に集まる人々が皆マスクをしていても、違和感はない。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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