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根岸吉太郎監督 「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」 2009 レビュー

根岸吉太郎監督 「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」 2009 レビュー

戦後のリセット

 戦争が終わり、兵役を解かれた男たちは、肉体労働に汗を流した。疲れた身体は、酒という刺激を欲する。映画の舞台となる居酒屋「椿屋」には、そんな男どもが集まってくる。「椿屋」が店を構えるのは中野、おそらくはサンモールの東側だろう。この界隈には現在も小さな飲み屋がひしめき合っている。

 ゴチャゴチャと小汚い建物が並ぶ路地には塵芥が散在し、壁のポスターは剝がれている。伊武雅刀と室井滋夫婦が営む「椿屋」に、小説家の浅野忠信がフラっと現れる。初回こそ綺麗な飲み方で帰っていく浅野だが、その後まったく勘定を払わず、店中の酒を飲み尽くす。

 戦後から昭和三十年代の映像がYoutubeに多く投稿されている。もはや当時を実際に生きた人は少ない筈なのに、みな懐かしさを感じる。日本が直近にリセットされたのが先の敗戦であるならば、現代日本人の原風景はこの時代にあるのだ。

浅野忠信の狂気

 浅野忠信は無意識の俳優だ。「ヴィヨンの妻」では、原作の太宰治自身を体現する小説家を演じる。酒と女にだらしなく、破滅的な人生を歩む人物。「死にたい、死にたい」と、厭世的に振舞い、心中未遂を起こしたりもする。当時三島由紀夫は、太宰治の苦悩は乾布摩擦で治ってしまう類のものだ、と喝破した。

 かつて、日本の文学界には、こうした破滅的人物が多くいた。しかし庶民は、迷惑ばかりかけている彼等を、寛容に許してきた。浅野と伊武夫妻の関係はその典型だ。観念をこねくり回す高踏的なインテリは、尊敬の対象でもあったのだ。浅野は、泥酔して粗暴に振舞ったり、情けなく泣き崩れたりしているが、俳優としての浅野の眼は、そんな振舞いの際にも、感情に溺れていない。醒めきって、あらぬ方向を見ている。

 浅野忠信はいつもこうだ。気弱な青年を演じても、悪党を演じても、同じ眼をしている。彼は、破滅型文学者に感情移入などしていない。かと言って、この駄々っ子のような男を蔑んでいるわけでもない。漂白されている浅野の自我には深い空洞があり、そこに監督が望む人物像を出し入れしているのだ。その醒めきった眼は怖ろしい。この狂気の空洞の底には、いったい何が潜んでいるのだろう。

松たか子の欲望

 浅野を甲斐甲斐しく支える妻が、松たか子だ。破天荒な振舞いに驚きもせず、貧しい家庭を支えている。妻は夫に従うことが絶対だ、という規範を疑うことなく遵守している。シンプルな規範が社会に定着しているならば、背くことなど考えられない。溜まりに溜まった浅野の飲み代を、働いて返済することにした松だが、伊武夫妻との間に、金の貸し借りとは無関係な交流が産まれる。伊武夫妻と浅野夫妻は人生の先輩、後輩の絆で強く結ばれていく。

 松に恋愛感情を抱く人物が、二人登場する。妻夫木聡と堤真一だ。旋盤工の妻夫木は、浅野の読者であり、浅野に会えることを期待して「椿屋」に通っている。ある日泥酔した浅野は、妻夫木を自宅に強引に連れ帰る。翌早朝、妻夫木は松に恋情を告白するが、当然、松が宜うことはない。心中未遂を起こした浅野は、一命を取り留めるが、殺人未遂の嫌疑で拘留される。松は、浅野を救うべく、有能な弁護士である堤を訪ねる。堤のもとを辞去した後の松の姿。セックス後の女が雑踏を歩くとき、肩つきが違う。妙にストンと落ちた肩のまま、歩く松を、映画は容赦なく映し出す。

 旋盤工場の社長の息子である妻夫木、エリート弁護士である堤。社会的地位の安定度は、申し分ない。小説家など一寸先はわからない稼業だ。しかし、松は浅野のもとを離れる気配は一切見せない。なぜか? 浅野を愛しているからだ。松は破滅的な男が好きなのだ。

 自身が破滅的な行動をするわけではない。男が少しずつ破滅するのに寄り添いたいのだ。浅野は実のところ、本気で破滅する勇気も覚悟もない。生きるのが怖く、破滅に向かうフリをしているだけだ。松は、そんな夫の甘ったれを愛している。そこに雑念はなく、ただ、弱い男が好きなのだ。ラストのサクランボを食べるシーンに、そのことが感動的に露呈される。「ヴィヨンの妻」は貞淑な妻を讃えていない。女の深い欲望を描き、怖れているのだ。

助演男優の充実

 1980年代初頭、エキセントリックな存在感とともに登場した伊武雅刀は、現在まで多くの映画に助演している。当初は少しコミカルな悪役を得意としていたが、年を重ねるごとに、昭和の空気を体現する存在感を纏い始めた。「椿屋」の主人の人となりを映画が語ることはないが、戦中戦後に紆余曲折を経た男の年輪が刻まれている。浅野の狼藉を強く咎められなかったり、情にほだされたりする優しさは、映画の重要な幹の一つとしてしっかりと存在している。

 妻夫木聡が演じるのは、誠実で内気な旋盤工だ。「椿屋」でも、いつも控えめに呑んでいる。現代ではどんな仕事でもコミュニケーションスキルを要求されるが、昭和の職工には、積み重ねた技術力と仕事に打ち込む誠実さのほうが重要だったのだろう。本来は主役級の妻夫木だが、ここでは浅野の引き立て役に徹している。浅野の泥酔に困惑する表情、松の可憐さにドギマギする姿。普通の男が充分に純真だった時代背景を巧みに体現している。

 堤真一演じる弁護士は、少し鼻持ちならない人物だ。社会的地位の高い人物が、威厳を誇示するのは、普通のことだったのだろう。社会的に成功し、経済的にも裕福な人物。丸の内あたりに立派な事務所を構えている。しかし、魅力的な人物には見えない。堤もまた主役級の俳優だが、背が高くルックスも良いエリート弁護士より、社会道徳からかけはなれた小説家のほうが魅力的に見える。これは、他ならない松の視点なのだが、この視点を観客が認識するには、堤の存在が必須なのだ。

根岸吉太郎が描く男女

 「にっかつロマンポルノ」で登場した根岸吉太郎は、一貫して男女の関係性を描いてきた。そのテーマは、男の弱さと女の鈍感力だ。「探偵物語(1983)」の松田優作は、前妻に未練を持ちつつ、女子大生(薬師丸ひろ子)にも惹かれる中途半端な男だ。

「ひとひらの雪(1985)」の津川雅彦は、女から女へ渡り歩くプレイボーイだが、秋吉久美子の強靭な中核にやられてしまう。薬師丸や秋吉は、決して器用ではない。自身の女としての魅力も精確に捕捉できていない。しかし、彼女たちの中核には、強靭な鈍感力がある。それは決して人生経験で得られたものではない。女の本性だ。薬師丸は、背伸びしているだけのようにも見えるが、男女の機微を本能として熟知しているのだ。

 「ヴィヨンの妻」の松たか子。デビュー当初こそ、育ちのいいお嬢さんに見えた彼女だが、凄まじい女優になった。彼女は、社会規範のせいで夫を見棄てられないのではない。夫を強く愛しているのだ。情熱的に愛情表現することはないが、こころの中核にある鈍感力は、何物にも替え難いものをしっかりと捕捉している。その他のことはすべて、些事に過ぎない。松たか子はそんな鈍感力をずっしりと保持している。ラストシーンの表情は、考えて作れるものではない。

 根岸吉太郎は、浅野忠信の無意識と、松たか子の鈍感力を見抜き、活写した。男は愚行を重ね、女はただ盲目に愛する。この構図は、成瀬巳喜男のテーゼだ。「山の音(1954)」「浮雲(1955)」を想起されたい。成瀬の高みに達しようとしている根岸吉太郎。2009年公開の本作の次回作を早く観たい。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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