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新藤兼人監督 「北斎漫画」 1981 レビュー ネタバレあり

新藤兼人監督 「北斎漫画」 1981 レビュー ネタバレあり

江戸の爛熟

 江戸の人口は100万人を超えていた。世界一の大都市だったという説もある。日本はガラパゴス的な発展を遂げ、1700年代後半、化政期には文化の爛熟期を迎えていた。葛飾北斎は1760年に産まれ、1848年に死んだ。その20年後に明治維新が起こったことになる。

 「北斎漫画」には、曲亭馬琴(西田敏行)、十返舎一九(宍戸錠)、式亭三馬(大村崑)、喜多川歌麿(愛川欽也)、といった化政期の戯作者や絵師が登場する。古典的な芸術である絵画や彫刻と異なり、出版や版画で複製されて販売された読本や浮世絵は、大衆向けのエンタテイメントとして庶民に親しまれたのだ。

 江戸には、故郷で家督を持てない男が次々と流入した。彼等の多くは肉体労働に従事し、貧しかったが、土地や家に縛られない自由を謳歌した。彼等に春を売る遊女たちも、農家から売られてくる。貴族でも武士でも僧侶でも百姓でもない。権威や武力や宗教や生産に根差さない、「庶民」が大都会「江戸」に登場したのだ。江戸が新興都市であったことは、文化の爛熟に影響している。歴史の重みを湛え続ける京都と違い、東京は今なお、無節操に変化し続けている。

 「北斎漫画」は、葛飾北斎の長い人生を通して、江戸の活力と寂寥を活写している。

緒形拳の充実

 葛飾北斎を演じるのは、緒形拳だ。1970年代後期から1980年代中期の緒形は、名実ともに日本映画を牽引していた。「復讐するは我にあり(1979)」、「野獣刑事 (1982)」、「陽暉楼(1983)」、「火宅の人(1986)」。常識に捕らわれず、強靭な意志のもと、行動する男を演じた。名匠たる監督の作家性を上回る膂力で、圧倒的な存在感を示した。

 葛飾北斎は、無頼の絵師だ。父に勘当され、妻にも逃げられたのか、娘(田中裕子)が身の回りの世話をしている。馬琴、一九、三馬、歌麿などの同輩は、才能を巧みに示すマーケティングに長けていたが、緒形はいつまでたっても貧乏長屋暮らしだ。しかし、創作意欲が搔き立てられたときの眼光は鋭い。

緒形は、大衆から喝采される、勧善懲悪のヒーローではない。日本の家制度を体現する父親でもない。感性に堕落する退廃者でもないし、組織を統括する支配者でもない。それらすべての要素を併せ持った、生身の人間なのだ。実世界で行動を成し得るのは緒形のような人物である。緒形は、善悪を自身の感性で判断し、時には組織を利用しながら、女を荒々しく抱いてきたのだ。

そんな緒形のもとに謎の女(樋口可南子)が現れる。

樋口可南子のセクシャリティ

 アンニュイな樋口は、何を考えているのかわからない。緒形は、樋口の裸体を描く。白い肌はセクシーだが肉感がなく、この世のものではない妖しさを発散している。ただならぬ妖気に充てられてしまった緒形は、父(フランキー堺)に樋口を売って金を得るが、堺も妖気に充てられて、首を吊ってしまう。

 樋口は大半のシーンに裸で登場する。1980年代の日本映画では、一線級の女優がこぞってヌードとなった。批評家やマスコミは、脱ぐ女優の覚悟を賞賛した。当時隆盛していたポルノ映画やAVと比しても、樋口の肌の露出度は大差ない。

 「もどり川(1983)」、「卍(1983)」、「ときめきに死す(1984)」では同様にセクシーな女性を演じているが、クレバーな知性を封印してわざと痴呆気味に振舞っている。「座頭市(1989)」、「陽炎(1991)」「女殺油地獄(1992)」では、30代の仇っぽい色香をフィーチャーした。「阿弥陀堂だより(2002)」、「明日の記憶(2006)」、「アキレスと亀(2008)」では、聡明な知性とともに、母性の優しさとおおらかさを滋味深く演じている。特に、北野武監督「アキレスと亀」では、芽の出ない画家(ビートたけし)を献身的に支える妻の深い諦念と力強い楽観を表現し、一つの到達点とした。

 「北斎漫画」の樋口は、裸で寝そべっているだけで、特に何もしていないし、何らかの意思を表明するわけでもない。美しさと性的魅力が、男の本能をたぶらかすことを熟知し、曖昧に揺蕩っている。美貌に恵まれれば、容易に男の庇護や金銭にありつけるんだから、野暮は言いっこなし。これもまた江戸の粋なのだろう。

新藤兼人の性への探求

 新藤兼人の膨大なフィルモグラフィー。1951年から2011年、99歳まで現役監督であり、最晩年の作品も評価が高い。「戦争」と「性」が大きなテーマだったのだろうか。「原爆の子(1952)」では被爆まもない広島が赤裸々に描かれている。原爆投下時、新藤は海軍にいたが、除隊後直ぐに故郷の広島を訪れ、壊滅した街を目の当たりにしたらしい。「性」については、ポルノグラフィーや性風俗によって誇張された付帯的な概念をとっぱらって、性の深淵を捉え、その可笑しみと悲しさを表現している。

 緒形は、樋口を更にエロティックに描くため、蛸を釣ってくる。樋口に絡みつく生きた蛸。ぬらぬらした蛸の感触に、樋口は妖しく喘ぎ悶える。樋口も、創作意欲を搔き立てようとして、若い男とのまぐわいを見せつける。しかしこれには、緒形は興味を示さない。「ごゆっくり」などと言って寝てしまう。嫉妬心も起こさない緒形に、樋口は性交を途中で止めてしまう。

健康な男女の行為は、エロティックではない。子孫繁栄のための自然な営みだ。一方、蛸が、人間の女の肌に性的関興を抱く筈もない。海に住むべき彼は、未知の生物から逃れようと、もがき苦しんでいるだけだ。何故、蛸がぬらぬらした感触をしているのか、などどうでもいい。イカれている樋口は、変態染みた感触を愉しんでいるだけだ。これまた変態である緒形は、直感的に樋口の変態性を見抜き、わざわざ海まで行って蛸を釣ってきたのだ。

人間の性欲などそんなものだ。何でもいいから新しい感覚を試してみたいのだ。現在、最も先鋭的なメディアであるAVは、北斎的な深化を遂げている。いかにも好色そうな女など面白くない。平凡に美しい女が、道具のように輪姦される。男の肛門を舐める。尿をかけられる。インターネットという完璧な複製インフラのもと、お手軽に彼女たちの痴態を消費できる。まさに現代の浮世絵だ。

大都会の刹那主義

農村の夜這いで、蛸など使う者はいない。夜這いは、集落の維持と性教育の装置だった。童貞の若い男が、近隣の家をこっそり訪れ、年増女にセックスを教わる。前戯などあまりしない。あくまで本番が主目的だ。動物に近い性欲の牧歌的な姿は農村の根深い因習と深く結びついている。

江戸のは、そんな単純な性欲の町ではない。男女比が6対4から、7対3であったという説もある。続々と流入してくる男たちは、生涯独身の者も多かったらしい。一方吉原では、売春に疑似恋愛をコーティングする文化が創造され、様々な儀礼によって独特の文化を築いた。

守るべき家庭を持たない男たち。春を売る女。やさぐれた彼等は、偽善的な道徳に左右されず、享楽的な文化を好んだ。宵越しの銭は持たず、遊びに金を捨てた。幕藩体制があまりにも強固だった半面、町人は、刹那的に生きていたのだ。

葛飾北斎は、生涯93回、転居したらしい。江戸の町は多くの賃貸物件を供給しており、貧乏人が長屋でひしめくように暮らしていたのだ。数多の時代劇に登場する町人たちを見ていただきたい。大火事は頻繁に発生し、切捨御免にいつ会うかわからない。それでも、なけなしの銭を掌でゆすりながら、蕎麦屋で酒を飲み、芝居を観る。

彼等は自粛などしない。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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