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西谷弘監督 「容疑者Xの献身」 2008 レビュー ネタバレあり

西谷弘監督 「容疑者Xの献身」 2008 レビュー ネタバレあり

「ガリレオ」シリーズの異色映画化


「容疑者Xの献身」は、テレビドラマシリーズ「ガリレオ」の映画化作品である。シリーズものでは、メインの配役やキャラクター設定などのフォーマットを確立することが最も重要だ。視聴者は優れたフォーマットを繰り返し楽しむことで、その小宇宙に深く入り込んでいくことになる。その拡大版である映画化作品では、観客が既に強固な共通認識を獲得しているため、いつもとは異なる展開への驚きを、レギュラー陣と共有しているように錯覚してしまう。「容疑者Xの献身」はその構造を十二分に活かした傑作である。

「ガリレオ」は、天才肌の物理学者である福山雅治のキャラクターが基盤となっている。福山は、「世の中に論理的に説明できないことはない」と嘯いている。曖昧なものを嫌い、明確な論理を追及することを偏愛している。彼の変人的なキャラクターは、ごく一般的な感性を持った柴咲コウとのコミカルなやりとりにて、巧みに中和されている。

 難事件が起こると、刑事である柴咲は福山に相談を持ち掛けるが、福山はそっけない態度をとる。しかし次第に、不可解な事実を論理的に解き明かしたい欲求にかられ、事件の真相を突き止めていく。このシリーズは東野圭吾の連作小説を原作としており、謎解きの緻密さ、人物造形の巧みさ、ストーリー構成の卓越性などの東野の才能が、バランス良く映像化されている。

映画「容疑者Xの献身」の主役は、福山雅治ではなく、堤真一だ。堤は、福山と大学の同窓であった高校教師である。当時福山が物理学に没頭していたのと同じく、堤は数学の天才だった。理系的に高度な頭脳と感性を持った二人は、意気投合していたのだが、今回発生した殺人事件が契機となって、17年ぶりに再会する。

謎解きミステリーでは、探偵に匹敵するほどの頭脳の持ち主が登場すると、好敵手として知能を競い合うのが定石だが、「容疑者Xの献身」では、その要素はサブの主題にとどめられている。メインの主題は「悲恋」なのだ。

孤独な数学者の悲恋


堤は、決して社交的ではなく、孤独に数学の世界に浸っている人物だ。勤務先の高校でも同僚や生徒との交流はない。独身の堤は、アパートの自室と学校を徒歩で往復するだけの生活を送っているのだ。堤がそんな人生に絶望して自殺を試みようとしたとき、隣室に越してきた松雪泰子と中学生の娘が挨拶に訪れる。二人のつつましい礼儀正しさと屈託のない朗らかさに、堤は衝撃を受ける。


世界は曖昧な夾雑物にまみれ、論理的に破綻している。堤の感性からすると、「数学的に美しくない」存在であり、そんな世界に適合することを完全に断念する決心がやっと着いた。そこに、論理や数学などと無関係な人生が可憐に輝いている美しさを、初めて目の当たりにしてしまったのだ。

松雪は、近所に弁当屋を開店したらしい。おずおずと覗いてみる堤だが、彼女は自分の来店を心から喜んでくれる。娘の金澤美穂も、通りすがりに出会うと、明るく挨拶してくれる。軽く手を振り返す堤は、そんな行為すら慣れていなく、精一杯だったに違いない。

誰とも心を交わすことなく、数学の冷徹な正確さだけを愛してきた。人間の心の情愛などという不明確なものは、軽蔑していた。そんな人生に希望を与えてくれたのが、松雪母娘だった、と堤は言うが、おそらくそれは真実ではない。自分が本当に欲しいものを知るのが怖くて、近寄らないように生きてきたのに、こんなに偶然に、さりげなく、それが現れてしまったので、偽りの隠遁生活へ逃げ続けることが出来なくなってしまったのだ。

不幸を呼ぶ魔の女


 そんなとき、松雪の別れた夫である長塚圭史が現れる。長塚は定職ももたず、金と女と酒にだらしない、どうしようもない男だ。自宅に無理やり上がり込んだ長塚を松雪母娘は殺害してしまう。そのことに気づいた堤は、その数学的頭脳で、完璧なアリバイ工作を策略する。

 捜査を担当する刑事である北村一輝も福山も、松雪が美人であることに敏感に反応する。はかない佇まいで、守ってあげたいタイプの女だ、と北村は言う。彼女は無意識のうちにその種の光線を強く発散しており、男はその魔力に溺れて破滅していくのだろう。現に、長塚は殺されたし、堤はアリバイ工作のために別の殺人まで犯して、完全に身を滅ぼす。彼女に再婚を持ち掛けているダンカンなど、簡単に滅びそうな気配が濃厚だし、状況によっては北村や福山だって危ない。

 「容疑者Xの献身」は、松雪泰子の魔性を開花させた作品としても特筆できる。若いころは、美貌を意識して高飛車にふるまう、ドライで強気な女だったが、三十路を超える頃から、その色香がしっとりと和風になってきた。スレンダーな股体はまだ蠱惑的であり、柳眉に皺を寄せている悲しげな表情は、すこぶる官能的だ。男を必要とする女の本性を娘に見抜かれ、ダンカンとの仲を詰問されたとき、長塚と堤を同格に扱っている本音を露わにしてしまう瞬間、凄まじい魔性を垣間見せる。

ウェットな破壊力


松雪の魔性に翻弄されている堤は、途方もないトリックを考え、超人的な実行力でそれをやり遂げる。盗聴を恐れて、近所の公衆電話から松雪にアリバイ工作の指示を与える。惚れた女のこれ以上ない弱みを掴み、完璧にその苦境を救っているのに、身体を求めるどころか、弁当を買うとき以外は、直接会ってすらいないのだ。

ダンカンという恋敵が現れると、当然のことながら嫉妬の炎が燃え盛るが、その嫉妬さえも自らの計画に組み込んでしまい、ストーカー行為の果ての殺人犯として、身代わりとなって自首してしまう。流石にここまで行くと、常軌を逸しすぎているとも感じるが、堤真一と松雪泰子の演技力は、常軌の逸脱にまで感情移入させる力を放っている。

この映画が、フィクションとしてリアリティを勝ち取り、観客に感情移入させる膂力は並大抵のものではない。これこそ、テレビでは獲得できない、映画の力であり、情感過多なストーリーがウェットな破壊力を生むのは、日本映画の伝統でもある。「砂の器(74)」「人間の証明(77)」「黒い画集 あるサラリーマンの証言(60)」などが想起される。

影の薄い主人公たち


 同じ理系オタク的な人物でありながら、堤があまりにも大胆な犯罪を実行するのに対し、福山は、それをなぞって読み解いただけだ。ラストであまりにも悲惨な破滅を迎える堤と松雪は、優れて映画的な人物として強烈な存在感を残すが、福山はその周辺にいる傍観者に過ぎない。柴咲コウにいたっては、そのまた周辺でちょこまか動いているだけにしか見えず、更に周辺に存在する北村一輝の常套的な刑事像など、もはやどうでもいい。

 しかし、彼等の存在がいかに凡庸であったとしても、観客にとって既知であることが重要なのである。彼等のキャラクターは充分に知りつくしており、そこに盤石の安定感があるからこそ、エキセントリックな人物は伸び伸びと波乱を巻き起こすことができ、強引に観客に感情移入させる膂力を獲得するのだ。

 ここで想起されるのは、「男はつらいよ」シリーズだ。渥美清がさまざまな美女に毎度失恋しても、凡庸の権化として君臨している前田吟や三崎千恵子や下条正巳は、全く同じリアクションしかしない。ただし、「男はつらいよ」の場合は、破天荒な筈の渥美清も毎度同じ破天荒ぶりをなぞるし、マドンナ役の女優の個性もだんだん同じようなものになっていった。偉大過ぎるマンネリは、可変でエキセントリックな部分さえもマンネリに巻き込み、すべては様式美の世界に収斂するのである。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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