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園子温監督 「冷たい熱帯魚」 2010 レビュー

園子温監督 「冷たい熱帯魚」 2010 レビュー

原初の快楽

 「ボディーを透明にする」と、でんでんは表現する。死体を細かく切り刻んで焼却し、残滓を川へ流す行為だ。殺人の動機は、快楽だ。欲望を満たす快楽、快楽の妨げになる人間を殺す快楽。殺人と性行為には、種の生存本能としての快楽が潜んでいる。本来、快楽を味わうことができるのは、強い人間だけだ。強い人間だけが、強い遺伝子を残す。

 動物は弱肉強食の世界に生きているが、人間は少し違う。弱い人間を生かして、利用すれば、より多くの快楽を得られることに気づいたのだ。多くの人間を搾取することで、快楽を安定的に獲得できるようになる。快楽の総量は増えるので、権力者の差配のもと、その一部は中間管理者にも与えられる。階級の複層化が進み、搾取される奴隷の人口も増えると、奴隷が団結することも起こる。数の論理が強まり、弱者が強者を打倒することも起き始める。

戦争の時代を経て定着した民主主義社会に、もはや強者は存在しない。全員が弱者だ。複製を重ねて薄められた快楽は、すべての弱者に与えられている。弱者は与えられた矮小な快楽を、多様な解釈で複雑化する。弱者は、快楽そのものではなく、快楽を解釈する洗練を消費するようになる。

「冷たい熱帯魚」のでんでんは、弱者の快楽を蔑み、原初の快楽を貪ろうとしている。

リアルの隙間を埋めるもの

小さな熱帯魚店を営む吹越満は、死別した前妻の娘(梶原ひかり)、後妻(神楽坂恵)と暮らしている。万引きした娘を助けてもらったことをきっかけに、でんでんと知り合う。でんでんも熱帯魚店の経営者だが、若い女の娘をたくさん雇って、幹線道路沿いに大きな店を構えている。でんでんは、非行傾向にある吹越の娘を自分の店で雇うことを持ち掛ける。次に神楽坂を寝取り、熱帯魚転売ビジネスの話を吹越に持ち掛ける。打合せする社長室には、諏訪太朗、渡辺哲といった散臭そうな男の他、若い妻(黒沢あすか)も同席している。しかし、この打合せは諏訪を殺害する罠であり、吹越は遺体隠蔽を手伝わされる羽目になる。

精力的なパワーを持つ男が、気の弱い男を支配する。現代では、こういうことはあまり起こらない。弱い人もそれなりに生きていけるし、強い人は弱い人を隷属しようとしない。経済や法律やメディアやネットが弱肉強食の隙間を埋めているのだ。隙間を漂う弱者は、自身で判断する必要がない。マスクをしてソーシャルディスタンスをとるだけだ。

弱者がコンプライアンスを遵守し、弱者同士のヒエラルキーを細かく忖度し、自制する。自粛する。それが大人の振舞いだと思っている。いや、本心ではそう思っていないが、そういうことにしておけばいい。何も判断せず、何も行動せずとも、隙間にあるものが全てを曖昧にして、現状維持に向かって協力してくれる。

でんでんの快楽主義

でんでんの快楽主義は、子供が弱い子を隷属させる手法、ある意味無邪気な悪だ。周囲にいる男は、全員自分の子分にしたい、女は全員ヤリたい。それだけだ。社会に対する屈折や、誇大妄想はない。ただ、目の前にいる人間を屈服させたいだけだ。

でんでんの演技は絶賛され、多くの映画賞を受賞した。でんでんといえば、下町にいるとぼけた気のいいおじさん、と誰もが思っていた。「CURE(1997)」の交番巡査役など、市井の善人そのものだ。でんでんが主演格だなんて珍しいな、と思っていたら、吹越だけでなく、観客もグイグイと惹きこまれる。人懐っこい相好で誰にでもフレンドリー。威圧するときもフレンドリー。相手を突き放さない、コミュニカティブな脅しで老獪に支配下に収めていく。

人生に立ち向かわない吹越を叱責するさまは、父権的にみえるが、実は母親的なおせっかいだ。おせっかいな市井のおっちゃんが、地に足をつけて「悪」を極める姿をリアルに体現している。

でんでんに翻弄される人々

諏訪太朗は禿頭が特徴の俳優だ。サラリーマンでもなく、悪役でもなく、なんとなく市井にいるが、どこか癖のある人物。諏訪は、毒入りの栄養ドリンクを飲んで毒殺されるのだが、しきりに「奥さん、これ美味しいですね」と黒沢に言う。その屈託のない笑顔。本当にそんな栄養ドリンクごときが美味かったのだろうか。こんなくだらない奴は別に死んでもいいよ、と観客に思わせる、迫真の演技だ。

渡辺哲は、でんでんの顧問弁護士だが、全然弁護士に見えない。「HANA-BI(1998)」のスクラップ屋のおやじがぴったりだ。でんでんの隣で睨みをきかせているいかつい男だが、何故か黒沢あすかとデキている。黒沢という女は、従業員の女の娘もからかったりしていて、生来の淫乱なのだろう。渡辺とのプレイを渡辺の舎弟に見せつけて喜んだりしている。渡辺は、そんな見せつけプレイをしているときに、殺されてしまう。舎弟も、見せつけられていただけなのに殺されてしまう。

寸前まで性交していた男の死体を、切り刻むことなど、できるのだろうか? 分かりやすい狂気だ。完全に理性を棄却し、目いっぱい振り切れている。でんでんの命令で、吹越とも性交する黒沢。その吹越に殺されかけたのに、吹越がでんでんを殺したのを見ると、今度は吹越の命じるままとなる。殺し合いに勝った男に服従し、濡らして挿入を待つのが、弱肉強食のブレない論理なのだろう。

でんでんの奔放を困惑しながらも受け止める吹越満こそ、映画の基軸的役割を果たしている。ラストで吹越は、「わらの犬(1971)」のダスティン・ホフマンをオマージュする。しかしホフマンと違って、逆襲時の吹越は、激情に高揚していない。冷徹に娘の目前で妻を犯し、娘を殴り、でんでんと黒沢を殺害する。妻さえも殺した後、娘の前で自殺するところまで、流石の演技力で一気に見せる。吹越満にとって珍しい主演作は、彼の力量を十二分に発揮した会心作となった。

映画自身が味わう快楽

でんでんは、当然「悪」である。しかし、「悪」の圧倒的な膂力に、吹越も観客も反論できない。「自分の力でものごとを解決してみろ」という言葉には、凄みと説得力が満ちている。原初的な快楽を味わうため、善悪顧みず実行してきた男。妻や娘のささやかな幸福を願いながら、そのための行動を起こさない男。ほとんどの観客は後者の類であることを園子温は良く知っていて、グイグイとそのことを突き付けてくる。

映画などという消費物こそ、快楽の模倣に過ぎない。そんなものを作っている園自身も、喜んで観ている観客も、原初の快楽からかけ離れている。しかし、原初の快楽への憧憬が消えているわけではない。だから、こんな映画を作ったり、観たりして、何かがわかったような気になっているのだ。

「冷たい熱帯魚」という優れた映画自身が、原初の快楽を憧憬している。園と「冷たい熱帯魚」は、快楽の模倣を試みる。そこに映画的強度が産まれる。しかし、映画的強度を獲得すればするほど、その強度が本質的にリアルではない、というパラドックスに直面する。

ならば、荒唐無稽にカオスを提示してやれ。キレたからとはいえ、急に吹越があんなに強くなるわけがない。熱帯魚に餌を撒いていた手で、手際よく人が殺せるわけがない。古典的どんでん返しで全てを無化することによって、「いい映画を観た感動」などという曖昧物を叩きのめしているのだ。かくして観客は、模倣を追体験する自慰行為から、逃れられることになる。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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