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黒沢清監督 「散歩する侵略者」 2017 レビュー ネタバレあり

黒沢清監督 「散歩する侵略者」 2017 レビュー ネタバレあり

あらすじ


数日間の行方不明の後、不仲だった夫がまるで別人のようになって帰ってきた。急に穏やかで優しくなった夫に戸惑う加瀬鳴海(長澤まさみ)。夫・加瀬真治(松田龍平)は毎日散歩に出かけて行く。一体何をしているのか…?同じ頃、町では一家惨殺事件が発生し、奇妙な現象が頻発する。ジャーナリストの桜井(長谷川博己)は取材中に一人、ある事実に気づく。やがて町は急速に不穏な世界へと姿を変え、事態は思わぬ方向へと動く。「地球を侵略しに来た」— 真治から衝撃の告白を受ける鳴海。混乱に巻き込まれていく桜井。当たり前の日常がある日突然、様相を変える。些細な出来事が、想像もしない展開へ。彼らが見たものとは、そしてたどり着く結末とは?


https://filmarks.com/movies/71343/spoiler

違和感を表明しつづける黒沢清


 阪本順治が失速し、北野武が成熟してしまった今、平成初期から続く茫漠とした居心地の悪さを表明し続ける映画作家は、黒沢清だけとなった。

日常交わされる夫婦の会話、血を分けた親子の情愛、会社員が仕事をこなしていく責任感。どれをとってもリアリティーがなく、「お約束」をなぞっているに過ぎない。何故、人々はフェイクのなかに埋没し、真実を求めないのだろう。

真実を希求するロックシンガーや小説家などの芸術家は一応存在はする。しかし、彼等が掴んでいるように見える真実は、制服を着せられたように一律同じ意匠である。どこかからテンプレートを探してきてなぞっているだけで、オリジナリティなど全くない。

初恋のせつなさ、友情の尊さ、個人の尊厳を踏みにじる国家権力に立ち向かう勇気。これらのくだらないテンプレートを、愚かな大衆は感動すらしながら、消費している。

そんな状況への違和を表明するために、黒沢清は映画作家になったのだろう。

ホラーとSF


 違和を表明するのに、最も容易なスタイルがホラーとSFだ。「CURE(97)」、回路(00)」、「LOFT(06)」「叫(07)」といった諸作は、ホラーとして純粋に怖かった。特に、「叫」で幽霊として登場する葉月里緒奈が圧倒的に怖い。赤いワンピースを着て空中を飛びまわる葉月の、幼児性を残した女のエロティシズムは、死によっていびつにその表象を際立たせており、何もなぞっていないリアルな存在として、映画に君臨していた。

「わたしは死んだ。だから、みんなも死んでください。」余事を全てそぎ落とした、ホラー映画史に残る名セリフと言えよう。

「散歩する侵略者」は、宇宙人が地球を侵略するSFだ。松田龍平が宇宙人で、その妻が長澤まさみである。長澤の配役は、70年代アメリカSF映画の匂いを感じさせる。性的に成熟し、仕事を持ち、現実社会で逞しく暮らす生活力のある美人像は、ファラ・フォーセットやマーゴット・キダーの系譜といえる。そんな長澤の存在を支点として、松田の異形性は際立つ。

優れて日本的な手弱女ぶりを表象する松田は、中世の貴族のようなやんごとなき佇まいで、現実世界に違和を表明し続ける。松田は、宇宙人に身体を乗っ取られているのだが、人間であった頃の松田の人となりを映画が描くことはない。もしかすると宇宙人になってからの態度とあまり変わらないのかもしれない。

無個性の象徴としてのショッピングモール


夫婦は、宇宙人による地球侵略の策略を悟りつつ、なぜかショッピングモールを歩く。場所は、東京から少し離れた地方都市らしい。ショッピングモールは、清潔で便利で、どんな人でも安心して楽しめる場所だ。ウォシュレットのような存在といえる。ここには、広告代理店のマーケッターたちが考えた薄っぺらいマッチポンプが充満している空間だ。平成以降、もう人々はリアルを求めることをやめていて、自堕落に楽屋落ち的なマッチポンプに加担しているが、加担していることにすら無自覚である。

元来、人の集まる繁華街は、いかがわしい人間が闊歩する怖い町であった。一歩路地に踏み込むと身の危険を感じる悪場所には、健康な暴力と都市の饐えた匂いが充満していた。

黒沢清が登場した1980年代から、都市のデオドラント化が始まった。国鉄はJRになり、新宿南口の場外馬券売場はJRAになった。Jリーグ、JT、Jビーフ。肉や煙草まで「J」になり、地方の駅前ロータリーはどこもエスカレータのついたコリドーになった。

現在では、新宿歌舞伎町でさえも、魔窟的な様相や多国籍的な混沌は薄まりつつある。しかし風林会館付近、新宿センター街あたりには、その残滓は残されてはいるが。

意味性の破壊


無個性がひろがりつつ、そこに違和感を持つ若者がまだギリギリ残存していたのが、90年代だった。そんな乾いた感性にフィットしたのが、北野武であり、黒沢清だった。


無個性がひろがりつつ、そこに違和感を持つ若者がまだギリギリ残存していたのが、90年代だった。そんな乾いた感性にフィットしたのが、北野武であり、黒沢清だった。

「CURE(97)」の萩原聖人は、少しの間しか記憶を保つことができない。そのふるまいは、無意味に常識をなぞっている一般人を嘲笑っている。実際に萩原は、催眠術を使って人々から常識を拭い去り、殺人を犯させる。「叫」の葉月も、水辺に人々を誘い、殺人を犯させる。

萩原や葉月の魔力に茫然とする人たちは、同時に解放感も味わっている。意味性からの解放だ。長い人生や単調な毎日をやりすごすために、共同体やマスコミが支給してきた様々な共通言語。無意味なコンセンサスから解き放たれた彼らは、無表情ではあるが、微かな笑みのもと、人を殺す。


「散歩する侵略者」の松田龍平は、自身が異界の存在であるとともに、異界の人に解放された人間としても存在している。妄念や怨念に突き動かされている萩原や葉月と違って、松田のひょうひょうとした態度には、妙な気楽さがあり、意味性から解放されているように見える。

、異界の人に解放された人間としても存在している。妄念や怨念に突き動かされている萩原や葉月と違って、松田のひょうひょうとした態度には、妙な気楽さがあり、意味性から解放されているように見える。

 黒沢は、そんな意味性を徹底的に忌み嫌っている。社会は存在する価値のない「意味」をなんとなく作り、人々はその「意味」に、意味なく寄り掛かっている。様々な嘘の感情が捏造されるが、人々は捏造だと気づいていない。

エンタテイメントの傘


 意味性の虚飾を声高に暴くことは、黒沢の流儀ではない。あくまで自然に、少しおちょくってやればいいのだ。無意味を揶揄することで、そこに少しだけ客観性が生まれる。揶揄といっても馬鹿にしてはいけない。何故なら、意味性の虚飾を暴いたところで、その裏側に意味が立ち上がるわけでもないし、何より、黒沢自身が、別の意味性を確立しているわけではないのだ。

 その対極に、黒澤明という巨大な存在がある。黒澤には、強固な意味性を確立することこそ、人間のあるべき姿であるという強い信念がある。「天国と地獄(65)」の三船敏郎がその最たる存在だ。また、「生きる(51)」の志村喬は意味性を求めてさまよい、死の前に小さな意味を獲得する。

 黒澤明の時代から、黒沢清の時代まで、約40年。黒澤が求めた筈の意味性は、完全に失われた。黒澤明は、「精魂こめて意味を創出すること」を説き、黒沢清は、「意味があるふりをやめること」を諭している。あくまで、両極端な作家性だが、エンタテイメントの力を信じていることでは共通している。
 


 「精魂こめて意味を創出すること」をあまり真摯に説きすぎると、抹香臭くなる。人間が行動するときのダイナミズムを活写し、映画活劇を創作したのが黒澤ならば、その名作群は、戦後の復興の時代に寄り添ったエンタテイメントであったと言える。

 「意味があるふりをやめ」ても、その他に何か別の意味を見つけ出さなければ、完全なニヒリズムの奥底へ沈み込んでしまう。阿蘇山の火口を覗き込む人のように、少しおどけてその深淵を観客と一緒に確認するしかない。
 黒沢清の映画とは、そういった怖いものみたさ的なエンタテイメント性にあふれており、ホラーやSFのスタイルをまとうのは偶然ではない。

松田龍平の異形性


90年代から00年代の黒沢映画の主演は主に、哀川翔や役所広司が担ってきた。彼等は、バイタリティ溢れる中年男であり、少しアウトロー気味な性向はあれど、基本的には社会を構成する常識人の範疇に属していた。

浅野忠信やオダギリジョーの世代は、もっと個人主義的であり、社会の規範を少し揶揄しながら楽しむ若者像であった。決して中年にならない、少しふざけた青年像ともいえる。

 その次の世代に属する松田龍平の異形性は、現在日本映画での突出しており、これから黒沢とのタッグが多発されることを期待したい。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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