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ティッシュみたいだね 映画って

増村保造監督 「やくざ絶唱」 1970 感想

増村保造監督 「やくざ絶唱」 1970 感想

愛すべきやんちゃ男

 主演、勝新太郎。冒頭のシーン。街のチンピラどもを軽く殴り倒した後、愛人へのプレゼントを買い、勝が颯爽と家路へと闊歩する。この3分ほどで、勝新太郎という男が、この映画に君臨することが高らかに宣言される。

 要するに、子供だ。やくざ稼業の男だが、組織の権力闘争などには、興味がない。威張り腐って街をのし歩き、みんなが自分に頭を下げるのが気持ちいいだけだ。なんであいつらが俺に頭下げるのかって? そりゃあ、俺が強えからよ。

 勝はバーのホステス(太地喜和子)を囲っている。まあ半分ヒモだ。太地もあまり頭がいい女ではない。セックスと酒以外に何にも考えていない。腕っぷしの強い勝に惚れているのか、力ずくで手籠めにされているのか。

 家には、高校生の妹(大谷直子)もいる。浮ついたところのない、しっかりした娘だ。勝と大谷の父親(加藤嘉)は老いてなお、会社を経営している。後妻と養子(田村正和)を迎え、豪華なマンションに暮らしている。勝は大谷が6歳のころから父親がわりに育ててきており、溺愛している。

 傍若無人、やりたい放題に生きているガキ大将のような男が、年の離れた妹だけは、聖なる存在として神聖視している。女性を聖と俗に分離している典型だ。大地のような水商売の女は、金づるであり、セックスの対象でしかない。他の女たちもシノギのための商売道具だ。大谷だけが、汚れを知らない純粋な少女で、世間の薄汚れた水に染めてはならない。

聖と俗

 俗にまみれた人間が、どこかに神聖な聖域を求める。例えばキリスト教のマリアだったり、わが国で言えば、天照大神なのだろう。古来女神は、絵画や銅像に彫像されてきた。聖なる存在は、女性でなくてはならない。その神々しい美しさは、汚してはならない存在として崇拝される。一方で、数多の女性は、婢として雑務に従事させられる。娼婦として性欲のはけ口とされる。男性が支配してきた古来の世界では、女性を聖と俗に分離することで、雑役労働力を確保し、性欲を鎮静すると同時に、倫理や秩序の乱れを防いでもいたのだ。

 民主主義の歴史は、そうして虐げられてきた女性を解放してきた歴史だと言える。男性に従属することなく、女性も自らの意志で人生を選択し、切り開くべきだ。職業の自由、婚姻の自由、居住の自由は当然の権利でなければならない。

 しかし、本当に女性は差別されてきたのか? 虐げられてきたのか? 家庭のなかでは妻が実権を握っていたのではないか? 男女の支配構造とは、そんなに単純なものではなく、夫も妻も、我慢を重ねながら、あるときはわがままにも振舞い、互いにそれを許容してきたのではないか。男性には、女性を支配したい欲求があるが、一方では、女性に甘え、依存するのも男ではなかったか。女性は、男に尽くすことに喜びを覚えながらも、夫婦とは、互いに悪態もついたりできる率直な関係だったのではないか。

 民主主義の歴史を、勝/大谷兄妹も辿る。大谷も高校三年生となり、めっきり女らしくなってきた。もう、あどけなく兄を慕う少女ではない。大谷は映画館に通う。小説を読む。自分の知らない世界は、あまりにも拡い。さまざまな人々がさまざまな人生を歩んでいる。それに比べて自分の住む世界の何とちっぽけなことか。学校と家を往復する生活。家族といっても兄だけ。そう、兄、兄、兄。私にとって、兄の存在が全てではないか。そりゃあ、優しい兄は大好きだ。父親代わりにずっと私を育ててくれた。でも、私はもう子供じゃない。いつまで兄一人、妹一人の生活を続けていくの? 私は、私の人生を生きたい。

個別の民主主義

 大谷は、田村正和と恋仲になる。田村は誠実な人柄を加藤嘉に信頼され、取締役も任されている。実直なだけでなく、ビジネスの才覚にも長けているのだろう。田村は、誠実に、ストレートに、大谷を口説く。強引な面もあるが、破天荒な勝に比べれば、常識範囲内だ。

 実は、この前に大谷は処女を捨てている。高校の教師である川津祐介を誘惑し、一晩限りの関係を持ったのだ。川津は、大谷の魅力の虜になるが、大谷は受合わない。あくまで処女を捨てる相手として、川津が適当だと判断したまでなのだ。川津なら自分に好意を持って優しくしてくれるだろうし、しつこくつきまとうこともしないだろう。女に飢えているほどモテないタイプでもないし、教え子に手を出したことを知られるのは、教師として致命的なはずだ。

 これも民主主義。専制君主の支配から逃れるため、勝がいちばんショックを受ける処女喪失の事実を突き付け、独立を勝ち取ったのだ。その後、対立する組との暴力事件で勝は逮捕され、収監される。一人になった大谷は、加藤の口利きで職にもつき、自立の道を歩み始める。そんな中での田村の求愛。理知的な常識人である田村は、勝とは全く違うタイプだ。しかし、やがて勝が服役を終え、出所してくる。田村としては、怖い兄だが、対決しなければならない。

 小汚い勝の自宅での三人の対決。大谷との結婚を許すよう、強い気持ちを勝にぶつける田村。全く取り合わない勝。エキセントリックになった大谷は、田村に、勝を殺せ、と言う。殺してでも自分を奪い取ってくれというわけだ。常識人の田村にはそんなフリさえできない。ならば帰れ、と大谷。もう貴方なんて嫌い。大谷なりに事の決着を付けようとしたのか。帰る田村。更に口論となる兄妹。勝は家を出ていき、近くに残っていた田村と鉢合わせする。「結婚しろ。絶対幸福にしろよ」

増村保造のヒューマニズム

 大映専属であった勝と増村監督だが、勝の出演作は少ない。しかし、増村の思想をこれ以上体現する俳優はいない。本作の後、「御用牙 かみそり半蔵地獄責め(1973)」という痛快な傑作が、勝プロダクションの製作にて登場する。

江戸北町奉行所同心・板見半蔵、人呼んで、かみそり半蔵(勝新太郎)は、江戸にはびこる悪を懲らしめるために、手段は選ばない。堕胎を密かに請け負い、暴利を貪っている尼寺に潜入した勝は、尼僧をしょっ引く。日夜米俵で鍛えた自らの陰茎を駆使した拷問に、屈しない女はいない。

 これぞ、増村のヒューマニズムだ。己の欲望のまま、したいことを存分にやれ。周囲に配慮して忖度することなど、愚の骨頂だ。善だろうが、悪だろうが、自身の魂の奥底から湧き出てくる欲望こそ、人間が人間たる所以だ。動物には本能しかないが、人間は、幸か不幸か、感情を持ってしまった。感情は、欲望という化け物を産み出した。この混沌とpした化け物を飼いならすのは、極めて難しい。人々はこの化け物が自分のこころのなかに棲んでいることを、恥ずかしく感じている。見られたくない恥部だと感じている。そうだろうか。隠しているからころ、この化け物は、醜く発酵して、腐臭を放つのではないか。直射日光のもとに曝け出してみろ。他人に嘲り嗤われてみろ。羞恥心を全身で感じてみろ。その先にしか、活き活きとした精神の躍動はない。恥部は殺菌され、研磨されつくした果てに、人間の個性となる。この本物の個性は、光沢を放って輝くのだ。

 勝新こそ、このヒューマニズムを最も体現している男だ。豪放磊落なエピソードの数々は、笑いを取るために行ったのではない。田村正和も大谷直子も、これから恥部をさらけ出そうとしている若者だ。増村のヒューマニズムは、ここでも燦然と輝いている。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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