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大島渚監督 「御法度」 1999 感想

大島渚監督 「御法度」 1999 感想

異才の軽やかな遺作

私が大島渚を知ったのは、「戦場のメリークリスマス(1983)」だった。この作品以降、大島は、映画を撮らない映画監督として「朝まで生テレビ」等のテレビ番組に出演していた。「朝生」の大島は、番組終盤に怒りを爆発させ、反体制/反権力の頑固さを披歴していた。「戦メリ」をテレビで観た後、旧作を何本かヴィデオで観たが、エキセントリック過ぎて、よくわからなかった。

そんな折、「御法度」が公開された。主演はビートたけし、音楽は坂本龍一、松田龍平のデビュー、と話題に事欠かない。私は初めて大島渚の新作を映画館で観るということに昂奮した。幕末、新撰組を舞台とした衆道の話というのも、大島らしい。きっと難解な映画なのだろう。

ところが、「御法度」は難しい映画ではなかった。台詞もストーリーもわかりやすく、軽妙だとも言える。何より、反体制/反権力の声高な主張がなかった。映画を通して提示し続け、「朝生」でも弁舌を振るった、大島の最大のテーマ「日本という国家への疑念」がすっぽり無くなっていたのである。ときは幕末、尊王と攘夷が激しく争っていた。新撰組はその渦中にいた。日本という国家が激動し、大きく転換しようとしていた時代。当然大島には、この時代の思想に対して、一家言あるはずだろう。

「御法度」はホモセクシャル映画だ。男同士の嫉妬と感情の機微が描かれている。それまでの大島の映画でも、「性」は重要なテーマではあった。しかしそれは、揺れ動く戦後社会の縮図を「性」に仮託した抽象的な表現だった。しかし、「御法度」は男色をめぐる軽妙なコメディーとして、素晴らしい出来栄えとなり、この作品が大島の遺作となった。

衆道を巡る疑心暗鬼

江戸時代、武士の間で「衆道」と称する男色が一般化し、男性同士の性交渉が普通のこととして受け入れられていた。そんな時代、新撰組に松田龍平が入隊してくる。映画公開当時、松田の実年齢は16歳。男らしく颯爽としたタイプではなく、まだあどけなさの残る、中性的な少年。喜怒哀楽を表さない無表情が、謎めいても見える。なるほど、男色家が好むのはこういうタイプなのか。しかし、剣の腕前は、局長の近藤勇(崔洋一)や副長の土方歳三(ビートたけし)が認めるほどのものだ。ほどなく、松田と同時に入隊した浅野忠信が懸想し、関係を持つ。その噂は隊内に広まる。妖しさを増してきた松田に想いを寄せる者が、多数現れる。

「御法度」は、佐幕と尊王の思想的対立や、欧米列強に立ち向かう日本の動揺を描くことはない。以前の大島の映画のように、抽象的な論理が饒舌に語られないのだ。新撰組の剣豪たちは、まだ子供のような少年の未成熟な色香に惑わされる。しかし、責任者である崔やたけしは、それほど大きな問題と思っているわけでもない。少し興味半分に事態を見ており、互いの「その気」を疑ってみたりして、この状況を楽しんでいたりもする。

衆道が珍しくない時代とは言え、「その気」をなかなか大っぴらにするものでもない。カミングアウトがなければ、互いに疑心暗鬼にもなる。後年でいうと「部落」「在日」がそんな疑心暗鬼を産んだが、これらは深刻な差別であり、面白半分にすべき問題ではない。当代では、「コロナ」とやらがその辺に該当するか。

脇役陣の大活躍

松田、浅野、崔、たけし。主要キャストの4人を中核に話が進むのかというと、そうでもない。

次に松田に恋焦がれるのは、田口トモロヲだ。田口は松田を飲みに誘い、想いを遂げるが、真剣そのもの。切羽詰まった恋心は、浅野への強いジェラシーを産む。浅野も、松田が浮気していないか、気が気でない。婉然たる松田の微笑に田口や浅野は苦悶するしかない。松田との逢瀬を重ねるほどに、田口の恋心が募る一方だが、そんななか、田口は夜討ちに会い殺害される。

風紀の乱れを糺すため、たけしは、トミーズ雅に命じて、松田に女の味を覚えさせようとする。遊郭へ連れていけというのだ。何度も断られた挙句、雅のなじみの店に同道するが、松田は未遂のまま逃げ出してしまう。その逐一を、雅は上長であるたけしに報告するのだが、無骨な雅にとって、微細な色香を放つ松田との交渉は、決して得意な仕事ではない。事が巧く運ばない報告を、たけしは愉快げに笑って聞く。この密談が醸す可笑しみは、お笑い芸人同士だからこそ生み出せる空気感だろう。更に、「その気」はない雅さえも、松田との仲を噂されるようになり、ついには雅も夜討ちに会うが、これは未遂に終わる。

流石に恋の相手ではないが、松田は、隊の重鎮の一人である坂上二郎と親しくなる。坂上は、崔やたけしと近い人脈にある存在だが、剣の腕もなく、権力欲もない、飄々とした老人だ。松田は、坂上と剣の稽古をする際、明らかに手を抜く。それほど腕前が違うのだが、自ずとその立ち会いは、緊張感に欠けたものとなる。それを偶然通りがかった的場浩司ら数人の侍に嘲笑われる。

武士の流儀では、剣の腕を馬鹿にされて黙っている訳にはいかない。坂上も松田もそれほど気が進むわけではないが、それが武士の世の中だ。夜更けに的場らを討ちにいく二人の姿は、血気盛んな武士の凄みなどなく、お爺さんと孫の散歩のような、珍道中だ。

坂上の出演映画の最高傑作は、「コント55号 世紀の大弱点(1968)」だ。ここでの坂上は、エキセントリックな萩本欽一に徹底的に振り回される。柔和でおっとりした性格は、キレキレの頭脳派からすると、まどろっこしくでしょうがないのだろう。「御法度」では、田口トモロヲもトミーズ雅も、特に頭が切れるタイプではなく、市井の普通の人物だ。彼等がまだ子供の松田龍平に翻弄されるさまは、この映画のコメディとしての側面を下支えし、その結果、物語としての豊穣さを獲得している。

ビートたけしの成熟

衆道騒動を収束すべく、田口や雅を襲った犯人と目される浅野を、松田に討たせるよう、崔がたけしに命じる。崔は、冷徹に組織を引き締めるリアリストであると同時に、ひねくれた悪意の強い人物でもあるのだろう。恋人同士の二人を、対決させて、一方が死ぬことで、この騒動に決着をつけようというのだ。たけしは、中堅のリーダ格である沖田総司(武田真治)とともに、この勝負の見届け役をも命じられる。組織のNo.2であるたけしは、こんな崔の悪意も含めた一連の騒動に、少し心を動かされながらも、冷静に監視している、いわば常識的な人物だ。

果たして、ビートたけし/北野武が常識的であったことが、かつてあっただろうか?

漫才ブームの波に乗って登場したツービートは、反社会的な毒舌で人気を博した。1980年代の軽佻浮薄な空気感を逆手にとったたけしは、テレビのバラエティー番組を、ナンセンスな下ネタやブラックなギャグで満載にした。

「その男、凶暴につき(1989)」で映画監督デビューした北野武は、1990年代を象徴するかのように、自らの虚無を全開にし、前衛的な映画を連打した。無口で不穏な空気を漂わせた、主演俳優のビートたけしは、突発の暴力で昭和的な予定調和を叩き潰し、日本のみならず、世界の映画のエッジに立った。

そのたけしが、決して善人ではないが、常識に即した人物を、滋味深く演じている。これは、たけし自身の成熟であるのだろうが、もしかして、俳優たけしをここまで使いこなせるのは、大島渚だけだったのかもしれない。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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