シネマ執事

ティッシュみたいだね 映画って

黒沢清監督 「旅のおわり世界のはじまり」 2019 感想

黒沢清監督 「旅のおわり世界のはじまり」 2019 感想

トップアイドルとしての前田敦子

前田敦子は、美人ではない。トップアイドルなのに美人ではないのだ。結婚して子供もいるので、もうアイドルは卒業している、と思う人もいるだろう。女優への転身に成功していると。しかし、AKB48の中心メンバーだった時代も、決して美人ではなかった。少女の頃から美貌ではなかったし、大人の色香が出てくる気配もない。キュートな存在感で男心をくすぐるタイプはAKB48に多いし、そもそもアイドルとはそういうものだが、前田はそこにも当てはまるかどうか。

「旅のおわり世界のはじまり」の前田敦子は、バラエティ番組のレポーターだ。ディレクター(加瀬亮)、スタッフ(染谷将太、柄本時生)とともに、ウズベキスタンを訪れている。総勢4人の撮影クルー、おそらくかなり低予算なのだろう。3人の男たちは、かったるそうに仕事をしている。

テレビに出る若い女性は、たいてい平均以上の容姿だ。レポーターやアシスタントから女優に転身してブレイクした例も多い。テレビに出ていなくても、若い女の子は男からチヤホヤされるものだろう。

しかし前田は、加瀬たちから全くチヤホヤされていない。完全に目下扱いだ。湖に腰まで浸からされたり、遊園地で、危険なアトラクションに連続して乗せられたり。単なる素材として、粗雑に扱われている。仕事の後も、夕食にすら誘われない。女として見られていないのだ。少人数でのロケ地なら、男女の間違いも起こりそうなものだが、そんな気配はない。

若い女性が、性の対象として崇められた時代は終わったのか。彼女たちの株は暴落したのか。確かに、前田より美しい女性たちが多数AVに出演し、彼女たちの変態じみた性行為を、低価格にてかんたんにネット視聴できる時代になった。

それでは何故、前田はトップアイドルなのか? そしてこの映画に主演しているのか?

異界の消滅

本作公開当時27歳の前田だが、スタッフジャンパーを着ている姿は、中学生ぐらいにしか見えない。小柄な身体から、性的オーラは全く発散されない。クリクリした眼は可愛らしいが、その魅力は、子供を愛でるような可憐さだ。少しひっくり返ったような、甘ったるい声も、精神的に自立できていない幼さを垂れ流している。

撮影終了後、彼女は、バザールにひとり出かける。ウズベキスタンの治安は、比較的悪くないようだが、それでもバザールの雑多な喧噪を、子供のような少女がひとりでスタスタ歩いている姿は、安心して見ていられるものではない。

英語もあまり通じない国で、バスに乗り、市場を歩き、パンを買う。異国の市場は、それほど風光明媚でもない。大雑把に言えば、単なる田舎だ。グローバルな現代では、新奇な風景はもうそんなに残っていない。東京こそ、新奇な意匠にあふれた、異界の大都会なのだ。新奇ではないが、異国の空気は、冷たく、寂しい。夜、ホテルに逃げ帰るように戻った前田は、あまり美味しくもなさそうなパンにかぶりつく。

アイドルという文化の力

タシュケントのナヴォイ劇場に迷い込むことで、彼女の旅は、様相を変える。ナヴォイ劇場は、1947年に建立されたバレエ・オペラ劇場だ。当時この国はソ連の支配下にあり、日本兵捕虜もこの劇場の建設作業に徴用されたらしい。

豪奢な外観を持つこの劇場の内部は、ヨーロッパの芸術の絢爛さを体現するような空間だ。歌手を目指している前田は、この気高いステージに立っている姿を想像する。映し出されるのは、夢見る前田の姿だけではない。想像上の前田が、このステージで、エディット・ピアフの名曲「愛の讃歌」を歌いあげる。

エディット・ピアフは、1930年代から1960年代まで活躍した、フランスを代表するシャンソン歌手だ。「愛の讃歌(1950)」は、日本語訳されて日本でも歌い継がれてきた。

「愛の讃歌」は、愛の「狂気」を歌っている。感情過多なメロディーや歌いまわしは、欧州の傲慢な自尊心を象徴している。黒人音楽が世界のポップミュージックを席捲し始めるのが、1950年代半ばだとすると、その直前、欧州の退廃的な芸術が世界で唯一の権威だったのだ。

70年前の欧州芸術の権威に挑む、前田敦子。「愛の讃歌」録音時、ピアフは35歳だったのだが、苦難に蹂躙され、堕落してもなおかつ、威風堂々な気高さは鬼気迫っている。

対する前田敦子27歳。まるで修学旅行に訪れた中学生のようだ。

しかし、私は驚いた。AKB48時代にどんな声で歌っていたのか知らないが、ここでの前田は、ふくよかな低音を活かした、堂々たる歌いっぷりなのだ。ピアフに匹敵する歌唱を披見しているとまでは言わない。だが、この歌声には、心を撃たれた。「表現したい」という本物の欲求が、小柄な身体から迸っていて、ナヴォイ劇場の権威にも互角に対峙している。

「非実力派宣言」とは、森高千里が30年前に放った名言だが、日本の芸能の極意は、ここにある。欧州的な権威主義とは対照的に、日本の文化には、手弱女の伝統が受け継がれている。一次的な技巧の実力ではなく、ポップアート的にキャッチ―な脆弱性に魂を込めて、未成熟に青い魅力を増幅させる。アイドルという文化は、日本にしか成し得ない、手弱女の化身であり、その複層性の機微は、世界最高水準の芸術性にまで高められている。前田敦子が、何故、トップアイドルなのか、その答えはここにある。

慣れ合いの拒絶

黒沢清は、慣れ合いのコミュニケーションを拒絶する。テンプレート化された、コミュニケーションもどきを忌避している。加瀬亮は、前田敦子をチヤホヤしないが、軽視しているわけではない。まだ何物でもない、発展途上の27歳の女性。要するに若造だ。若造に媚びることなく、フラットに対峙して仕事をしているだけなのだ。何かをなぞったような振舞いを排除して、女性にも外国人にも相対する。この映画での加瀬亮は特に突出した人物ではなく、「普通」の男としてかったるく仕事をしているだけなのだ。

慣れ合いを拒絶した清々しさの果てに、本物がある。ドキュメンタリーが半分ヤラセの演出の上で成立していることなど、今や視聴者知り尽くしている。そんなことも含めて、テレビ番組は消費されているのだ。いや、むしろそんな舞台裏をメインに消費するフェイズまで退廃しているのかもしれない。

 ウズベキスタンとの合作映画を製作するにあたって、黒沢清はあえて、この手法をとった。ウズベキスタンを舞台にして、フィクションの物語を展開すれば、テンプレートの呪縛から逃れられない。そんな観光映画の駄作は、古今東西吐いて捨てる程存在する。ウズベキスタンという土地を一旦相対化した上で、相対化の極致であるアイドルの歌唱を欧州の古い権威と対決させる。

異物の萌芽

 ラストシーンでは、再び前田が今度は砂漠で、「愛の讃歌」を歌う。前田の歌唱の胆力のしたたかさを既に知っている観客は、本物の表現欲求をより深く味わい、感動するのだが、改めて注視すると、彼女の顔つきや声質は、やはり、ビザールな異物性を強く放射している。

山下敦弘監督「もらとりあむタマ子(2013)」で見せた無意識過剰、堤幸彦監督「イニシエーション・ラブ(2015)」で見せた自意識過剰、黒沢清監督「散歩する侵略者(2017)」で見せた、土着のクレイジーな膂力。前田敦子のフィルモグラフィーは異物の活躍に溢れている。

慣れ合いの拒絶と異物の萌芽。黒沢清のアナーキズムを体現する主演女優として、前田敦子の最高傑作が誕生した。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

CAPTCHA


Other

More
Return Top