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佐藤 純彌監督 「君よ憤怒の河を渉れ」 1976 感想

佐藤 純彌監督 「君よ憤怒の河を渉れ」 1976 感想

ヒーローとしての高倉健

高倉健こそが、ヒーローだ。男の中の男だ。東映退社後第一作「君よ憤怒の河を渉れ」は、1976年、高倉健45歳の作品である。

高倉は、検事を演じる。東映時代、主にヤクザを演じてきた高倉だが、知的エリートの颯爽とした背広姿もサマになっている。高倉検事は、ある日、強盗傷害の容疑で逮捕される。全く身に覚えがないが、自宅から盗品が発見される。状況証拠が揃い過ぎていると判断した高倉は、警部(原田芳雄)らの隙をついて逃亡、単身、真相を探る旅に出る。

社会的ステイタスの高い男が、無実の罪を着せられる。明らかに罠だ。失地回復のため、北陸や北海道へと渡り、超人的な活躍を見せる。その高倉を執拗に追い、卑劣な手段をも厭わない、原田の執念。北海道で高倉と出会い、彼を愛して、支えようとする中野良子。ヒーローと、悪役のライバル、そして愛する女性。分かり易い構図の3人は、我が強く、周囲の空気など全く頓着せず、一心不乱に行為する。

ヒーローは、苦境にひるまない。絶体絶命の危機に陥っても、冷静に打開策を探り、恐れずに状況を突破していく。常に己を律し、無駄な思考を排除して、シンプルな原理に意志を収斂させる。

高倉の強靭な意志は、口元に現れている。少し食いしばったような口元は、何かを堪えているようだ。いったい何を堪えているのか? 怠惰へ陥る惰弱さか。性欲や贅沢欲のような煩悩か。それもあるだろう。しかし、彼が耐えているのは、過去の過ちだ。意志を貫いた結果、苦しませてきた人々への忸怩たる思いだ。高倉は豪放磊落な豪傑ではない。露悪的なニヒリストでもない。人を苦しめてしまった過去を忘れることができないのだ。彼の倫理は、己を律して人のために尽くすところにある。尽くす対象は国家やコミュニティではない。一期一会に出会った人々への思い。しかし、一心不乱な行為は、不本意な結果を産むこともある。高倉健はそのことに耐え続けながらも、現在を切り開いていくヒーローなのだ。

魅力的な助演陣

1931年生まれの高倉健と1940年生まれの原田芳雄。9歳の年齢差だが、世代の断層は大きい。戦後の復興期を象徴するのが高倉健なら、爛熟~迷走期を象徴するのが原田芳雄だ。1960年終盤に登場した原田芳雄は、1970年代を体現している。既成の権力、既成の倫理、既成の観念への反旗。警察官を演じてはいるが、本作の原田も徹底的なアウトローだ。

社会秩序の安定や、平和な社会正義のために奉職しているわけではない。とにかく、力という力を叩きのめしたいのだ。そういう意味で、警察より上位の権威である検察のエリートを倒すことに、原田の熱量は否が応でも昂る。

北海道知事を目指す実力者である大滝秀治。懐の深い実業者ぶりが、なかなか堂に入っている。財界の大物と言えば、山村聰や山形勲ら、恰幅のいい昭和的紳士が大作映画の定番配役であり、大滝は、地域の古老や弁護士といった、朴訥なのに一癖ありそうな人物を演じて来たのだが、ここでは、一癖も二癖もある大物を、流石の存在感で演じている。中野良子の父親である大滝は、彼女が高倉を愛し始めていることをいち早く察し、叱責するのだが、やがて高倉の逃亡をさりげなく手助けする。

中野良子は、勝気で世間知らずだが、利発で大胆なお嬢様を演じる。1970年代、フェミニズムの隆盛とともに、颯爽と仕事や恋愛の主導権を握る女性像が持て囃された。妻でもなく、母でもなく、売春婦でもなく、水商売の女でもなく、下働きでもない、自立した女。彼女のように直情的に自立を主張する女は、当時、眩しい存在だった。

しかし、この映画は中野良子主演のヒロイン映画ではない。あくまで彼女はヒーローを支える役割として、「強い」女なのだ。この後日本映画は、山口百恵という、古典的神秘をまとった少女の神々しさに回帰する。

高倉健の上司を演じる池部良。検察庁の幹部である池部こそ、本物の権力者であるが、その佇まいには、深いニヒリズムが漂っている。権力の中枢に近づくほど、複雑な矛盾を飲み込んで生きなければならず、晦渋なニヒリズムが醸成されるのだろう。このニヒリズムには、戦前のエリートの貴族性が色濃く残存している。池部は、実際に、中尉として南方に従軍している。戦後民主主義に毒される以前、選良たる覚悟と苦渋を持つ最後の世代なのだろう。

精神病院の院長を演じる岡田英次。ニヒリズムの濃度は、池部よりも高い。岡田は、政界の黒幕である西村晃の指示で、人間を廃人に追い込んでいる。この病院は、そもそも患者を治療して回復させることなど考えていない。岡田がこんな悪徳を働いているのは、金のためだけではなく、人を廃人化することに愉悦を感じているのだろう。権力の狭間でニヒリズムに陥っている池部とは違い、自身の虚無を解放しているのだ。

岡田は、今井正監督「また逢う日まで(1950)」、山本薩夫監督「真空地帯(1952)」といった戦後民主主義の開花を代表する諸作に主演してきた。「反権力」という姿勢が、いずれ自己撞着に陥ることは必然なのだが、今作では、そうして生成された虚無が、悪徳に転化し、凄惨な人格が異形化しているさまを、見事に演じ切っている。

佐藤純彌のストーリーテリング

社会派エンタテイメントの職人である佐藤純彌にとって、映画的快楽とは、「冒険」と「スリル」だ。背景には、社会の矛盾への告発が敷かれているが、あくまで舞台装置に過ぎない。高倉主演の「新幹線大爆破(1975)」では反社会的な知能犯と国鉄/警察との頭脳戦をスリリングに描いた。「人間の証明(1977)」では、日米の宿命と母親の我欲を強引に結び付けてみせた。「野生の証明(1978)」では三たび高倉を主演に迎え、男の闘争本能と少女期のエキセントリックな感性を対比させてみた。

「北京原人 Who Are You?(1997)」こそが、最大の問題作だ。人間と猿の端境を探求するも、その手法はあまりにも粗雑、しかし豪胆であり、キワモノ活劇としての魅力は、小松みゆきと片岡礼子のセクシャリティとともに忘れ難い。

「君よ憤怒の河を渉れ」のスリルの頂点は、高倉がセスナを操縦して北海道を脱出するシーンだろう。大滝秀治が言う。「君は飛行機を操縦したことがあるかね?」高倉「ありません。」あるわけないのだが、3分程度の大滝のレクチャーで、高倉は空に飛び立つ。中野良子は半狂乱だ。離陸のギリギリでパトカーがセスナに追いすがるが、当然のことながら離陸してしまえば、もう追うすべはない。

新宿の雑踏に紛れる高倉の逃避行を助けるため、中野良子が競走馬数頭を率いて疾走する。中野と高倉は、馬上で愛を交歓しつつ、脱出に成功する。

岡田の精神病院に強制収容された高倉は、人間としての自意識を奪い去る薬を無理矢理投与される。飲んだフリをして、すぐさま嘔吐する高倉。徐々に廃人になっていく演技に岡田や病院のスタッフは気づかない。

 荒唐無稽な筋立てを、揶揄する向きも当然ある。しかし、これはエンタテイメントだ。完全なるフィクションとして、リアリズムよりもスリリングさを優先して、しっかりと成果を出している。降旗康男監督作品での、過度にストイックな高倉も鈍い磁力を放っているが、佐藤作品での高倉は、もっと直情的で、野性味あふれている。「冒険」と「スリル」を颯爽と行為する高倉健の最高の活劇が、「君よ憤怒の河を渉れ」なのだ。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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