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市川崑監督 「破戒」 1962 感想

市川崑監督 「破戒」 1962 感想

カミングアウトへの戒め

「戒め」は、部落民であることをカミングアウトするな、という掟だ。「破戒」とは、この戒めを破ること。小学校の教師である市川雷蔵は、教室で生徒に向かって「破戒」する。清廉なこころを持つ雷蔵のカミングアウトは、生徒や教師、周囲の人々のこころを動かし、差別の愚かさを皆が認識する。

部落差別は人種差別と違って、生体的な特徴が起因ではないので、身上を隠すことが可能だ。しかし、隠していても噂は伝わりやすい。陰湿な疑心暗鬼がお互いの間に発生する。

雷蔵もこの噂に堪えられなくなって「破戒」するのだが、この映画に出てくる人々の全てが、部落民を差別しているわけでもない。むしろ、差別心のない人のほうが多い。差別的な発言をする人もいるが、強烈に忌み嫌っているレベルではなく、冗談まじりに揶揄しているだけのようにも思える。

実際の部落差別は、島崎藤村の原作が書かれた1905年には、もっと激しかったはずだし、この映画が公開された1962年の時点でも、現代とは事情が異なる。

市川崑は、部落差別の悲惨さを強調していない。この映画は、清廉なこころを持つ青年の苦悩を描く青春映画であり、世間の人々が決して冷たい他人だけではない、ということを優しく描いた、善意の映画である。

コンプライアンスと偽善

善と悪の二律背反は、人間のこころのなかで、様々な葛藤を産む。善も悪も、生来の性格や心情だけでなく、周囲からの同調圧力にも影響されることが多い。こうした、他者への意識が強くなると、偽悪や偽善になりうる。偽悪も偽善も、程度によっては微笑ましいものだが、人々の間で相互に増幅されると、おぞましいものに成り下がる。近年米国から発信されている過剰なポリティカルコレクトネスの波は、わが国を偽善で覆っている。

ヤクザは、果たして完全に排除しなければいけない反社会勢力なのか? 喫煙は、許容すべき悪癖なのかもしれないのではないか? 「オリンピック」ではなく「オリンピック・パラリンピック」と必ず言わなければならないのか? しかし、こういった偽善の同調圧力の風潮が、部落差別解消の大きな一助となっているのかもしれない。

差別はよくないことだが、執拗に差別者をつるし上げたり、被差別者の悲惨さを誇張したりすることも、好ましくない。過去の悪制は、時の経過とともに自然に忘れ去られていけばいいのだろう。

私自身も、小学生の道徳の時間で、部落差別についての作文に「引っ越せばいい」と書いた記憶がある。大げさに騒ぎ立てると、部落の人は怖いという誤った認識さえ持ちかねない。劣悪な住環境の故郷を抜け出し、特に出自を示すことなく、一般のなかに混じって暮らし、子孫を残していけばいいのではないか?と考えたのだ。

正確な統計は存在しないのだろうが、現在は、ほぼ当時の私が考えたようになったのだろう。

名優たちの競演

部落解放を解く人士を演じた三國連太郎は、凄まじい信念の発露を体現して、圧倒的な存在感を見せている。三國は自ら部落出身であることをカミングアウトしているが、今や佐藤浩市を差別する人など誰もいないだろう。

長門裕之の少々軽率だが、率直で前向きな青年ぶりも素晴らしい。雷蔵の同僚教師である長門は当初、差別的言辞を発していたが、そのことを率直に悔い、改めるのだ。

岸田今日子の演じる日本的な賢女の凛々しさ。静かな佇まいの一挙手一投足に、強靭な謙虚さと、普遍からぶれないクレバーさが滲む。

藤村志保の楚々とした美しさ。自らの性的魅力を慎ましくも意識せず、慎ましく生きる健気さは、却って中村鴈治郎の食指にかかるのだが。

その鴈治郎が体現する俗物関西人ぶりは、いつもの安定感を見せる。

鴈治郎の妻を演じる杉村春子。彼女が演じる中年女性像は、決して日本の平均的主婦の姿ではなく、一族の人間関係を巧みに差配する傑物のそれだ。

船越英二は、酒にだらしない元士族の教師を演じている。明治中期、既に元武士は特権階級ではなくなっており、むしろ雷蔵より貧しい生活を送っている。

加藤嘉と浜村純は、明治の農村に生きる男の卑屈さと強かさの混交を体現した。

宮口精二が演じる校長。日本的慣習を頑迷に継承しつつ、欧米の文明的論理にも固執する、明治の田舎インテリを体現している。

市川雷蔵の清々しさ

当時の大映脇役陣を中心とする、名優たちの助演のなかで、すっくと立っているように、青年の清廉さを見事に表現するのが、市川雷蔵だ。

この映画には、若者の複雑な精神の葛藤はない。シンプルな葛藤だけだ。部落の出自を隠せという、父や一族の「戒め」と、嘘をつきたくないという青年の率直な「善意」の二律背反がだけがあり、余計な夾雑物はない。

こころの苦悩は、実はシンプルな形に収斂できる。優先順位をきちんと決めれば、余計なものはそぎ落として、大事なことだけに向き合えるのだ。弱く愚かな人ほど、複雑な夾雑物をたくさん抱え込んでいるので、シンプルな解決策にたどり着けない。物事を複雑に考える人は、本当は問題を解決したいと思ってない。いつまでも悩んでいたいのだ。

雷蔵は、産まれた部落を離れて生活しているので、誰も彼の出自を知らない。父や叔父の戒めは、絶対に破ってはならないと考えている。しかし、自らの出自を明らかにし、差別のない、新しい世の中の創造を解く三國連太郎の思想には共鳴しており、著作を熱心に読んでいる。そんな折、雷蔵は三國と直接会う機会を得る。三國は、鋭い直感で雷蔵の出自を見抜く。清廉で理知的な後輩を得たことを三國は喜ぶが、雷蔵は三國に対してもカミングアウトできない。

旧弊な「戒め」。しかし、「戒め」を破ると、辛い差別を受けることになる。闊達な同輩の長門裕之でさえ、差別的な発言を繰り返しているのだ。しかし、自分の心に嘘をついていいのか?

偽善と善意

最終的にカミングアウトした雷蔵の勇気と清廉さに、周囲のひとはこころを撃たれる。ここには、「偽善」を全く感じさせない。夾雑物を排除した二律背反で悩む青年の決意は、ただ、美しい。その姿を見て心を動かされ、自らのこころのなかの差別心を悔い改める人々も素晴らしい。「善意」は、自らの考えで選び取っていけばいいし、間違っていれば修正すればいい。同調圧力の入りこむ余地などない。

市川崑は、こうした率直で、ドライなヒューマニズムを表現してきた映画作家だ。「私は二歳(1962)」では、家族の普遍的価値と世代の継承をユーモラスに描いた。「黒い十人の女(1961)」では、テレビ局という軽佻浮薄な世界に生きる男を描き、日本の伝統的な優男の可笑しさを愛でてみた。

第二次世界大戦時の凄まじい同調圧力を嫌悪した市川は、戦後日本にも同調圧力の風潮が強く残存していることを意識していた。しかし同時に、日本の庶民には、率直な清廉さや人間らしさを、ひとりひとりの個性として素直に敬する性質があることも知っていて、後者の爽やかな姿をさまざまな角度から描いたのだ。

京都で産まれ、大阪の歌舞伎界で育ち、関西的な都会気質を誰よりも身に着けた市川雷蔵にとって、もしかするとこのテーマは、比較的容易だったのかもしれない。

並みいる他の力作と違って、ここではかなり余裕のスタンスで演じている雷蔵の姿も、この映画に気品を与えているのかもしれない。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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