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市川崑監督 「私は二歳」 1962 感想

市川崑監督 「私は二歳」 1962 感想

戦後社会という桃源郷

愛国心や伝統を尊ぶこころは、敵を憎悪するこころも培かってしまう。挨拶をしない人に薄っすら敵意を抱くがごとく。大航海時代以降の世界では、異民族の衝突が多発し、戦争の規模は劇的に拡大した。

日本も史上最大の戦争を闘い、史上最大の敗北を喫した。国民精神は致命的な打撃を受けたが、すぐさま復興に向けて立ち上がった。凄まじいスピードで復興は成し遂げられたが、その原動力となったのが「平和主義」と「民主主義」だ。戦争は二度と起こしてはならず、自由と平和こそが絶対価値だ。

果たして、その理想は実現されたのである。その後70年以上日本は戦争を行っていないし、職業選択や居住地の自由も完全に達成された。モラル水準は高まり、治安や衛生は大きく改善した。人はみな親切で誠実で、苦役を強いられることもほぼない。

しかし、その桃源郷は、「偽善」にまみれている。社会は整然と形を整えたが、ダイナミックな活力を失った。誰もが現状維持を志向し、変革を企まなくなった。

「私は二歳」は1962年に制作された。二歳の男児の眼を通して世の中を見つめた、ヒューマニズムの傑作である。この映画を今見ると、敗戦から気持ちを切り替えて平和に生きる人たちの健気さが胸を撃つ。平和な社会を享受しながら、日本はどんどん豊かになっていく。そんな世相のなか、一般庶民の若い夫婦が子供を授かる。

彼等は、自分たちが生きているのが桃源郷だとは思いもしなかっただろう。

30代という若い大人

船越英二と山本富士子が、若い夫婦を演じている。彼等は団地に住む平凡なサラリーマン家族だ。専業主婦である山本が家事や子育てを切り盛りし、在宅時の船越はゴロゴロしているだけだ。

彼等は些細なことで小さな諍いを起こす。その言い分を聞いていると、異性の生理が自分とは異なるということが理解できていない。母親としての自覚を身に着けた山本は、わが子の健康と成長を願い、そのために全てを捧げる覚悟にブレがない。家庭とは、子供が成長していく場所なのだ。

船越は、何も考えていない。もちろんわが子は可愛いが、手間がかかって、少し面倒だ。まだ充分に美しい妻とデートしたり、都市の消費者生活をもっと謳歌したいとも思うが、妻や子供のために我慢するのはしょうがない、と思っている。

現代の若い夫婦も、ほぼ似たようなものだろう。そしておそらく、1962年よりももっと以前、明治時代、江戸時代、もっと遡って人類の有史以降、若い両親というものは、普遍的に同じものなのかもしれない。

男は女がわかっていないし、女も男がわかっていない。わからないながらも惹かれあって夫婦となり、子供を授かる。子供の存在、子供の成長によって若い大人たちは、少しずつ成熟を重ねていく。

虚構性の強い映画が多かった大映専属の山本と船越だが、ここではそんな夫婦や男女の普遍像を等身大で体現した、見事な演技を見せている。

女性が司る「家族」という空間

「私は二歳」には山本の他に3人の「母親」が登場する。船越の兄嫁である渡辺美佐子、山本の実姉である京塚昌子、船越の実母である浦辺粂子である。山本は彼女たちと子育てや母親の在り方について対話する。

渡辺との関係性は、先輩/後輩だ。少し年長の渡辺は山本に先んじて子供を儲けたので、ちょっとしたケアの仕方や母親としての愛情の注ぎ方について、自然にコーチングする。

京塚との関係は、世代や地域のギャップだ。地方に住む子沢山の京塚と東京に住む核家族の山本では、生活習慣や家族の在り方についての考え方が全く違う。仲の悪い姉妹ではないが、彼女たちの心情が一致することはない。

浦辺との関係は、嫁と姑だ。適度な厳しさをわが子に施し、依存心からの自立を考える山本に対し、浦辺は孫が可愛くて仕方がなく、デレデレに甘やかしている。孤独な浦辺にとって、孫とのコミュニケーションだけが生きがいなのだろう。

対立を深める浦辺と山本だが、共通の敵を攻撃することで一致団結し、母親同士としての絆を深める。

父と息子のみで留守番中、船越が目を離したすきに、息子がビニール袋をかぶって窒息しかけるという事件が勃発する。帰宅した山本と浦辺がいち早く事態を発見し、息子は命を取り留める。

船越の不手際を追及する二人の口調には、女の自信とプライドが世代を超えて一致した団結が漲り、船越はただ曖昧に詫びるのが精一杯だ。

子供を産み、育てて、世代交代を潤滑する場所としての「家」または「家族」。女性がこの場所を質実に保守することは、社会の根幹に位置するものである。そういう意味で専業主婦は立派な「社会人」であり、日本社会にはもともと男尊女卑など存在しない。

終身雇用と核家族

「私は二歳」に母親は沢山登場するが、父親は船越のみだ。船越はサラリーマンだが、彼が会社にいるシーンや、同僚など仕事関係の人物は全く登場しない。朝会社に出かけていく、しょぼくれた姿があるだけだ。

課長がなかなか自分の仕事ぶりを認めないことをこぼしていたり、山本に就業中もフルで働いていないであろうことを指摘されたり、月給があまり高くないことも皮肉られている。しかし、終身雇用制の真っただ中、嫌な課長の下で我慢していれば、いずれは課長にも昇進し、給料もあがった時代だったのだろう。

船越にはやはりサラリーマンの兄がいるが、彼が大阪に転勤になることで、船越一家は老いた母だけが残る実家へ移り住むことになる。

長男が家督を継ぐと、次男、三男は食い扶持がなかったのが江戸までの家父長制度だが、戦後のこの時代には、両親と子供だけの核家族が主流になっている。農耕が生活の糧であった時代は、家督を継ぐ者以外まで生き延びさせる余裕が社会になく、そうしたはぐれ者が、下層社会のスラム化や治安の悪化の遠因ともなっていたのだが、平和な民主主義の時代では、「会社」が家督に代わって生活の糧を供給し、かつ定年まで終身雇用の責任を持つ体制が構築されていた。この相互の信頼関係は、日本企業躍進の大きな原動力となった。次男、三男でも生活の糧を得ることが出来、結婚もできる。国民全員が家族を持ち、子供を作ることが、人類史上初めて可能になったのだ。

しかし、この桃源郷の時代がそう長くは続かなかったことは、今では周知の事実となってしまった。

市川崑と和田夏十

監督の市川崑と脚本の和田夏十も、夫婦である。この夫婦コンビは多くの傑作を産み出しているが、「私は二歳」こそが、和田夏十の寛いヒューマニズムが伸びやかに発露した最高峰である。

この夫婦の作風は、元来かなりドライであり、クールである。しかし、ヒューマンでもある。村社会や戦争時代を振り返るより、ドライに復興を支持する。そして、復興の原動力は、明るい人間性の発露だと考える。明るい人間性は全体に奉仕するより、個人の意思を貫くときこそ、真価を発揮する。

この伸びやかな作風は、東京オリンピックや新幹線開通が象徴する日本の高度経済成長にフィットした。

 市川崑の長いキャリアのうち、1956年から1964年まで。昭和31年から昭和39年までの9年間の大映時代が、クール、ドライ、ヒューマンが最も伸びやかに発露した時代である。

 人類史上稀にみるほどの成長期の日本人をクールに活写した市川崑。「私は二歳」で描かれる生命の普遍性と人間の愚かな可愛さ。こんな主題で描かれた傑作は、ちょっと他にない。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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