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天間敏宏監督 「教祖誕生」 1993 レビュー ネタバレあり

天間敏宏監督 「教祖誕生」 1993 レビュー ネタバレあり

1990年代の空気


1990年代前半、私は大学をほぼ放擲し、モラトリアム生活を送っていた。深夜のアルバイトを終え、昼夜逆転の朝日に眩暈しながら、名画座を彷徨った。そんな頃、「教祖誕生」を川口の古い映画館で観た。


1980年代からずっと、日本は躁状態だった。誰もが毎日を充実して楽しんでいなければならず、そうでない奴は、「ネクラ」と言われた。しかし1993年ごろから、日本は衰え始めた。まだ貧しくはなかったが、日本を覆っていた躁は一気に消え始めた。


映画冒頭、萩原聖人が船旅をしている。萩原もまた、モラトリアムを謳歌していたのだ。船上で新興宗教の一団に出会う。ベンチの隣にいる玉置浩二に話しかける。「インチキくさいですよね」深い意味はない。新興宗教はいつの時代も揶揄されるものだ。しかし、玉置は「新羅崇神朱雀教」の敬虔な信者だった。


暇と好奇心から、なんとなく教団についていく萩原。リーダー格のたけしは、これまた深い意味もなく萩原の同道を許す。教祖の下条正巳も、幹部の岸部一徳も、なんとなく教団に所属している。ハードコアな信仰者は玉置だけだ。
1995年、オウム真理教事件が起こった。オウムは殺人も厭わないハードな宗教であり、信者から金品も自由も性も強奪していたのだが、「新羅崇神朱雀教」はいかにもユルイ。牧歌的な田舎を巡教して、ヤラセの「お手かざし」など行っている。


躁状態のバブル期と世紀末に挟まれた、ユルイ時代。1993年とはそんな時代だった。

北野武とビートたけし


北野武の初期監督作は、圧倒的な強度を放っていた。強度の源泉は「虚無」だった。「教祖誕生」と同じ1993年には、虚無の極北とも言える「ソナチネ」が公開されている。「ソナチネ」のたけしは、完全に死を志向し、無意味の世界に漂っている。もし、北野武が「ソナチネ」を遺作として死んでいたら、世界屈指のカリスマとして、全世界に崇拝され続けているだろう。


1993年、たけし45歳。テレビ界のトップに君臨しながら、難解な前衛映画を連打していた時代に、自身の原作、脚本ながら、監督を天間敏宏に任せた主演映画が「教祖誕生」だった。


「教祖誕生」は、北野監督のハードな前衛性に比べると、わかりやすいストーリーだ。たけしは、浅草あたりの浮浪者だった老人(下条正巳)を教祖に祭り上げ、「新羅崇神朱雀教」を主宰している。十数人ほどの小集団で各地を巡教しているのだが、下条を放逐し、後任に萩原を任命するあたりから、教団は経済的に成功を収めていく。たけしの統率のもと、拝金主義をユルく成功させているのだが、そんなたけしと対立しているのが、教団青年部の玉置浩二だ。玉置は、神様への帰依に全てを捧げ、拝金主義のたけしを強烈に忌避している。誰もが「新羅崇神朱雀教」などインチキだと思っているのに、玉置だけがハードに信仰している図式は、双方に対して皮肉的であるし、玉置の狂的な「神性」を際立たせてもいる。


対してたけしは、徹底的に俗な男だ。宗教を食いものにしていることを隠そうとせず、むしろ露悪的に仄めかす。真摯に生きることが出来ない男だが、悪業に徹することもできない。なんとなくフラフラと金儲けを目論み、信仰だけでなく、俗世も小馬鹿にしている。このパーソナリティは、たけしのパブリックイメージに近似していて、観客は安心していつもの「たけちゃん」を愉しむことができる。


「教祖誕生」は、自らの監督作ではないだけに、俳優としてのたけしのシニシズム、幼児性、暴力性などの魅力を堪能できるわけだ。

玉置浩二の怖ろしさ


玉置浩二の映画出演作は少ないが、この作品が最高傑作だ。理知的に虚無に至った北野武と違って、天性の天才である玉置浩二が何を考えているのか、恐らく誰にもわからない。


萩原の修行を白装束で支援する玉置。たけしが萩原をソープに連れて行ったことを詰問する玉置。バッタモノの神像を庭先で燃す玉置。国舞亜矢と性交したことをたけしに難詰され、信者たちの前で痩身の裸体を晒す玉置。たけしを刺し殺そうとして返り討ちに会い、死んでしまう玉置。


新羅崇神朱雀教を真剣に信仰している唯一の人物である玉置は、拝金主義の亡者であり、信仰上の異端者であるたけしと対立する。新教祖萩原を盛り立てて信仰の強化を目論みたが、たけしの卑劣な罠に陥れ、殺害される。


誰もが、90年代のユルイ空気のなかでフニャフニャ宗教をやっているのに、玉置だけが、異端との激しい闘いの後、殉教していくのだ。


しかし、信仰に熱心な玉置の語彙を聞いても、古今東西の宗教学を修めた学術肌の人物には見えない。彼のもっともらしい発言は、どの宗教でもあてはまるようなありがちなフレーズを繰り返しているに過ぎない。要するに、あまり頭は良くなさそうだ。


こんな人物を真剣に演じて、のめり込んでいる玉置浩二。この狂気はこの映画でしか見られない怖ろしさだ。

欺瞞と偽善


宗教は、論理的ではない。故に日本人は、ともすると宗教を揶揄する。しかし世界には、論理が解明できる事象はごく少ないことを、宗教は見抜いている。


私は毎年正月に墓参している。県道沿いの墓地に神聖さなどないが、死者の気配は濃厚に感じる。人間は死後直ちに焼却される。私は、祖父や祖母のカラカラに焼き切れた骨を骨壺に入れたことを良く覚えている。幼き頃に亡くなった祖父や祖母の名に並んで、私の祖先たちの名前が、墓碑銘に刻まれている。100年、200年前に生きた彼等は、きっと私の人生も観ているに違いない。靖国神社に行くと、身が引き締まる。英霊は必ず現在の日本を見守っている。殉国者の尊い意識に見られているという感覚は、行動を強く戒めさせる。 


たけしは、宗教の欺瞞を嘲る。「宗教なんて金儲けの道具だ」「教祖なんてお飾りに過ぎない」。敬虔な玉置と対立するが、暴力で屈服させる。信者の母娘双方と関係を持つが、悪びれない。断食を敢行する萩原に「差し入れ」を持って行く。


しかし、彼が本当に実利的な人間であれば、表向き敬虔なフリをすればいいのではないか。玉置や萩原の純粋さを賞賛するほうが組織を巧みにマネジメントできるのではないか。露悪的な態度をとる人物は多いが、そういう人は幼い。宗教の偽善を暴いて溜飲をさげる行為など、一見リアリズムに見えるが、実は欠落の代償行為でしかない。そんな人物は決して成功できないことが、教団内でのたけしの失脚にて象徴される。

萩原聖人の空洞


対して、萩原は単なるモラトリアム青年だ。大きな挫折をしたわけでもなさそうだし、複雑な屈折も見えない。内向的に幼い自分を、日本の優しい旅の空に晒しているだけだ。


萩原は、なんとなく教団に加わり、なんとなく教祖になる。意志など全くなかったのだが、少しずつ「その気」になって行く。これは、原作/脚本、北野武の組織論だろう。自らが強い磁場を発する有能な人物は、トップに座るべきではない。ビートたけしのような超人は、個人として才能を発揮するが、たけし軍団のような組織を強化することはできないのだ。


組織のトップに立つべきは、超人ではなく、構成員の無意識を自然に吸い取るような触媒性に長けた人物だ。大衆は、自分の感覚でしか生きられない。その感覚を吸い寄せている空洞は、柔らかく聖性を帯びる。いうまでもなく、この構造を最も体現しているのは、天皇だ。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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