シネマ執事

ティッシュみたいだね 映画って

入江悠監督 「22年目の告白 -私が殺人犯です-」2017 レビュー ネタバレあり

入江悠監督 「22年目の告白 -私が殺人犯です-」2017 レビュー ネタバレあり

仲村トオルのいかがわしさ

 胡散臭いとは思っていた。例えば「接吻(2008)」。小池栄子の圧倒的な狂気と比して、渋く映画を支える名助演のように見える弁護士役だが、どこか嘘くさい。まず、声だ。誠実な男の渋く低い声。そんなものが仲村トオルに似合う筈がない。「22年目の告白」では、報道番組のキャスターを演じている。社会の矛盾を鋭く追求する熱きジャーナリスト、年輪を重ねた眼力が視聴者に評価されている、といったところか。仲村にそんなロジカルさがあるとは思えないが、一応、番組への出演シーンは、さまになっている。しかし、目がどこかうつろだ。長身スリムな体型も、実生活とリンクした真実味がない。思えば、「ビーバップハイスクール(1985)」のヤンキー高校生も偽りの存在だった。公開当時仲村は、専修大学の学生だったのだ。

 昭和時代、スターでも演技派でもない、奇矯な存在感の男優が異彩を放った。吉田輝雄、天知茂、新東宝時代の菅原文太も焦点の定まらない存在だった。吉田や天知は映画冒頭、誠実な紳士として登場するが、幾つかの伏線をチラつかせた後、悪の正体を露わにする。幾本もの映画でそのパターンを繰り返しているので、観客は登場の時点で彼らの誠実を信じてない。いつ化けの皮が剝がれるのか、剝がれ方の真骨頂を期待している。仲村トオルは、新東宝の蘇りだったのだ。

 仲村は、従軍ジャーナリストとして戦場の最前線で死線をさまよったことが起因となり、快楽殺人の虜となるのだが、実は、戦場の経験など言い訳に過ぎない。仲村は生まれつきの殺人者であり、対象が苦痛に慄くところを見ることに至上の快楽を覚えているのだ。

伊藤英明と藤原竜也

 伊藤英明は22年前、殺人犯を取り逃したばかりか、最愛の妹も殺害された刑事を演じている。昨今、警察組織を描く映画が増えている。組織の官僚的な側面を担う幹部役には、本作にも出演している矢島健一や、「犯人に告ぐ(2007)」の石橋凌などが印象深いが、主演格の刑事の適役は少ない。少し前の世代では「CURE(1997)」「カリスマ(1999)」「叫(2006)」の役所広司。組織の論理に与しない一匹狼的存在感は、アル・パチーノを彷彿とさせた。

 短髪の伊藤英明は、役所よりもっと昔、昭和中期の下川達平や山谷初男の雰囲気をも纏っている。出世には縁のない、ガサツな中年刑事。しかし署内での信望は厚い、叩き上げ。職業倫理や兄妹愛に熱い、シンプルな男を好演しているように思えたが、そうではなかった。伊藤にも、深い闇が潜んでいたことがやがて明らかになる。

藤原竜也は、連続殺人犯を自称してマスコミに登場する。端正なルックスでセンセーショナルな存在感とともに、女性ファンの心を掴んでしまう。現実にマスコミの寵児として登場するのは、いつも虚像的な人物だったりするのだが、藤原のジャニーズ系童顔には、生活感が全くない。映画の前半、藤原の虚像としての存在感は、映画をグイグイと牽引する。

 「22年目の告白」は、仲村、伊藤、藤原、3人の脂の乗った男優が、それぞれ出自の異なる虚像をぶつけ合った映画であり、その激突は、鋭い映像感覚とともに活写されている。

東京が孕む闇

 東京が舞台であることは、特に強調されていない。しかし、絶妙な速度で移動する空撮や、高層建築からの俯瞰ショットには、東京の闇が冷徹に映し出されている。雑居ビルの非常階段を転げ落ちながら逃げるチンピラと追う刑事。独特の無機的な風味を持つ路地は、香港でもロンドンでもなく、まさしく東京の隘路だ。起伏の多い地形は、高低と湾曲が複雑に折り重なり、さまざまな高さの建築物がそこに折り重なる。ビルは常に新築されているが、風化したビルも残存する。雑司ヶ谷あたりから遠くに聳えるサンシャイン60。神宮外苑から仰ぎ見るドコモタワー、初台の低層アパートと西新宿の高層ビルの落差。

 夜のシーンが多く、暗い映像は、東京の夜が孕む闇を通奏低音のように常時映している。その闇のなかを、仲村、伊藤、藤原といった虚飾の人物が闊歩し、ときに激高する。例えば大阪が舞台だったら、または福岡や神戸だったら、虚飾の人物は現れない。古代から大陸との関係を持ち、貿易の拠点であった西日本の大都会には、土地に根差した人間が、いまも着実に生きているのだ。

 東京は、まだ新しい都会だ。急造の人工都市である江戸は、活気とともに不自然な闇をたっぷりと抱え込んで膨張した。その闇を、東京はしっかりと継承している。

多様性に潜む欺瞞

 LGBTは、かなりの勢いで市民権を得ようとしている。同性愛が「普通」のこととして描かれるテレビドラマが放送され、大企業のCMにも女装の男性が「普通」の人物として登場するようになった。私も、ダイバーシティが当たり前の世の中が好ましいと思う。しかし、世の風潮は、ダイバーシティを少し美辞麗句として捉え過ぎている気配がある。

多様性とは、法を犯さなければ、「何をしても自由」ということだ。そして、心の中では、「何を考えても自由」、「何を感じても自由」ということだ。在日や部落を内心で差別するのも自由だし、北朝鮮に核爆弾を落とせと思うのも、女性は男性より劣っていると思うのも、ゲイが気持ち悪いと思うのも、コロナで高齢者は死んでしまえと思うのも、皇室など途絶えてしまえ、と思うのも、快楽のために人を殺したいと思うのも、内心であれば自由だ。

ダイバーシティとコンプライアンスが繋がっているとでも思っているのではないか? 多様性と言いながら、自分たちが好ましいと思っている価値のみを、守るべき少数意見に仕立て上げていないか? 邪悪な考え方でも、その存在は認めるのが、多様性である筈だが。コロナを巡って起こった事態は、同調圧力の強化による、価値の強制だった。

入江悠監督は、快楽殺人を否定していない。価値の啓蒙と多様性は矛盾しない。むしろその相克は社会に活力を産む。多様な価値の散在が産む軋轢は、相手の立脚点を認めあうことでロジカルな土壌に立ち、次のステージへ進む。仲村トオルを憎む観客も、密かに共感する観客も、いる筈だ。

エンタテイメントの行方

 猟奇的殺人、官僚化した警察組織、職業倫理への苦悩、マスコミの堕落、暗い過去を持つ主人公、ライバルとの愛憎。昭和の頃から犯罪エンタテイメントの定番要素は変わっていない。それぞれの描写はそれなりに洗練されてきてはいるが、素朴な野趣の強靭さは失われたのかもしれない。

 「22年目の告白」は、3人の男優が各々の持ち味を深めて、魅力的に発揮した佳作だ。時効という必要悪を巧くストーリーに組み込んだところに、グイグイ引き寄せられ、映画的昂奮は高まった。しかし、一番の見せ場である筈の、3人がそれぞれ別の顔を露呈させる場面の仕立てが、あっさりとし過ぎていて、少し拍子抜けした。

 入江悠監督の次作「ビジランテ」は自身の出身である埼玉県深谷市を舞台に、東京から離れた郊外という中途半端な土地で、鬱屈を抱える男女の迷走と停滞を活写した非エンタテイメントだった。篠田麻里子が体現する田舎女のエロさが秀逸だった。深谷だけでなく、日本は、とてつもなく停滞している。偽善的なダイバーシティでは、その停滞をはねのけることは出来ない。重い停滞を色濃く忍ばせたどす黒い犯罪エンタテイメント映画、そしてそのブレークスルーを体現する俳優の登場を切に希望する。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

CAPTCHA


Other

More
Return Top