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鈴木英夫監督 「黒い画集 第二話 寒流」 1961 レビュー ネタバレあり

鈴木英夫監督 「黒い画集 第二話 寒流」 1961 レビュー ネタバレあり

戦前フォーマットの喪失

 戦争に敗けたんだから仕方がない。皇統が継続できただけでも有難い。しかし、ここまで木端微塵に砕かれるとは。「黒い画集 第二話 寒流」を観ると、戦前から継続するフォーマットが、1961年にはまだ残存していたことを思い知らされる。

 中堅銀行員の池部良は、常務の平田昭彦に目をかけられ、池袋支店長に抜擢される。融資先の料亭の女将(新珠三千代)と恋仲になるが、女好きの平田に寝取られる。池部は復讐を目論むが、ことごとく敗北に終わる。

前頭取の息子である平田は、駆け足で役員となり、副頭取の中村伸郎を上回る程の権力を掌握しつつある。実人生で平田は、陸軍士官学校、東大法学部卒のエリートであり、東京貿易(現三菱商事)に就職している。いわばエリート組織を知りつくしている男だ。当時弱冠34歳だが、組織の幹部を多く演じてきた中村と堂々と渡り合っている。一つ一つの所作に無駄がなく、素早く決断を下す若き頭取候補だ。好色であることにも全く恥じいることなく、棄てた女の後始末を池部に命じたりしている。

しかし、平田は金と権力に溺れている男ではない。彼の目的は、組織の成功だ。その手段として権力は必要であり、選ばれた人間のみが権力を掌握できる。これこそが、戦前のエスタブリッシュメントだけに受け継がれた、普遍のフォーマットだ。このフォーマットが、現代日本では、完全に破壊されているのだ。

上司は部下に仕事を命じることはできない、共感なくしては。部下がその仕事を実行することに対して、感情的に腑に落ちて、共感できる伝え方でなければ、チームワークは成り立たない。会議では、安易に相手の意見を否定してはいけない。皆が合意形成するために、言葉を慎重に選んで、丹念な意識合わせされる。非難されるべきは、大声で自説を主張したり、下準備なく唐突な提案をすることだ。

現代の組織は、目的を遂行する集団ではなくなった。女性の思いを尊重し、部下の感情に寄り添い、空気を読んで、平穏な「職場環境」を維持することが目的となった。これは、「ムラ社会」だ。明治維新以降、国力や社会の隆盛を目的として創立されてきた「組織」は完全に破壊され、日本は「ムラ社会」に戻ったのだ。

池部良のニヒリズム

池部もまた、立教大学を卒業後、中尉として戦地に赴いている。平田が超エリートだとすれば、中堅のインテリだ。フランス映画の俳優のように、甘いニヒリズムを漂わせている池部は、いかにも女にモテそうだ。支店長赴任の挨拶周りで出会った瞬間、新珠のほうが池部に興味を持つ。事業拡大に意欲的な新珠には、色仕掛けで融資の交渉を進めたい思惑もあった。しかし、新珠からすれば、数段格上の平田のほうがビジネス上好都合だ。新珠は、仕事ができて、権力を掌握している男が好きなだけなのだろう。1960年代の新珠は、女の弱さやしたたかさを複雑に演じてきたのだが、ここでは、やや類型的な「強い女」に徹している。この映画は男女の恋情の話ではなく、権力と市民の対比の話なのだ。

官僚的な風貌の平田に対し、池部は、滅法セクシーだ。当時43歳、中年男の渋みがフェロモンを発する、煙草と洋酒の似合う男だ。「早春(1956)」の岸恵子との浮気、「雪国(1967)」での怠惰な湯治、「けものみち(1965)」での裏工作。官製の組織に属さず、気だるく生きている色男。男女の爛れた愛憎を描くなら、平田ではなく池部に軍配が上がる。俳優としてのキャリアも池部のほうが格上だ。

そんな池部が、銀行に勤めてはいけない。しきりに平田に「真面目な男」と揶揄されるが、彼のネガティブなニヒリズムは決して「真面目」ではない。

池部の転落

平田に女を寝取られ、負け犬となった池部を、新珠も平田も疎ましく思い始める。宇都宮支店に左遷され、仕事のやる気もない。平田への復讐を目論むのだが、その遣り口さえ、怠惰でキレがない。私立探偵(宮口精二)に平田と新珠の密会写真を撮らせ、総会屋(志村喬)にリークする。破格の追加融資が不正である旨、中村に告発する。しかし、稚拙な復讐は、老獪な平田に軽く一蹴される。妻は自殺未遂を起こし、子供を連れて実家に帰ってしまう。念の入った平田はヤクザの親分(丹波哲郎)を使って、余計なことを止めるよう脅す。弱さとニヒリズムを濃厚に発する池部を慕う別の女が現れることもない。

宮口精二、志村喬、丹波哲郎、浜村純(妻を診る医師)。日本映画の至宝とも言える名優たちが、市井の人々として、池部の転落に一瞬かかわる。彼等こそ、東大法学部卒ではなく、逞しい庶民として戦前からのフォーマットを支えて来た人物だ。しかし、実労働の厳しさのなかで生きる彼等の堅実な強さは、池部の惨めさを一層引き立ててしまう。

しかし、平田も新珠も、本気で恋愛しているわけではない。いづれ新珠に飽きた平田は、池部の代わりの誰かに命じて金で解決するだろうし、新珠は高額な返済を滞らせて困窮し、新たなパトロンを探すのだろう。

しかし、ここまで役員に歯向かっても、池部は解雇されない。宇都宮支店長として出勤していれば、生活に困ることはない。池部の私的な転落など、組織にとっては、取るに足らないことなのだ。大組織はあらゆる可能性を想定して、軽はずみな罰則は慎む。

民主主義の完璧な達成

現代社会でも、軽はずみな解雇は行われないかもしれない。しかし、意味合いは全く異なる。現代の組織には、冷徹なエスタブリッシュメントも、ニヒルなアウトローも存在しない。トップから末端まで、全てが「市井の人」なのだ。現代の市井人は、志村や丹波のように、自らの才覚で世間を渡ってない。「空気」というテンプレートに全員が乗っかっているだけだ。安倍前首相も、菅首相も、エリート官僚も、権力者ではない。野党議員に志村や丹波のような在野の凄みなどない。大企業の経営者や経団連は、日本経済の復活を自らの使命だとは思っていない。マスコミの権力も完全に失墜した。みんなが平等。完全にフラットな社会が達成されているのだ。

おめでとうございます。民主主義は完璧に達成されました。

「偽善」というニヒリズム

1961年の池袋や宇都宮は、まだ素朴な味わいを残している。シャープなモノクロ映像は、庶民が無邪気に労働し、家庭生活を営む生活の場を、ヴィヴィッドに映し出している。池袋駅東口には、既に西武百貨店が壁のように建っている。埼玉県民の入り口として当時から繁華していた街は、確かに料亭を営むには適していないが、庶民の都会として勢いを加速していた様子が見てとれる。

宇都宮は、内陸ののどかな街だ。新幹線や湘南新宿ラインの影響で、もはや首都圏の一環となってしまったが、当時は左遷で飛ばされるような街だったのだろう。

大手町に鎮座しているのであろう銀行の本店は、官僚組織の総本山だ。業務に励む行員を観下ろす吹き抜けの廊下に沿って、豪華な役員室が設置されている。

白を基調とした映像には、高度経済成長の活力が満ちている。恐らく鈴木英夫は、リアルタイムで起こっている日本の経済復興が、高度成長だとは認識していなかっただろう。原作の松本清張は、戦前/戦後に跨る社会の歪みを独自のサスペンス風味でエンタテイメントしたのだろう。

しかし、この映画を観ると、現代失われてしまった、鉄製の秩序の喪失を感じざるを得ない。果たして日本人は、「偽善」という最も怖ろしいニヒリズムから、脱出することができるのだろうか?

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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