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塚本晋也監督 「双生児」 1999 レビュー

塚本晋也監督 「双生児」 1999 レビュー

双生児の流離譚

 江戸川乱歩の原作は、1924年に発表されている。舞台となる大徳寺医院は、医院と家屋が同棟にある造りの日本家屋だ。西洋医学の治療を施す医院と、日本建築の普遍性を感じさせる居間や寝室。折衷こそが日本的美の精髄ならば、大正時代を描いた映画は、自ずと格調高くなる。パンキッシュな塚本だからこそ、この王道を丹念に映像化することから逃げず、味わい深く枯れた色彩の濃淡を現出させている。

 本木雅弘が、二代目の院長だ。父の仕事を堅実に受け継ぎ、戦地への従軍も務めた有為な人物。妻、りょう。しかし、父(筒井康隆)も母(藤村志保)も、出自のわからない嫁を心良く思っていない。本木は妻に優しいが、その優美な物腰は、直接的な愛情表現には結びつかず、夫婦の絆は可視化されない。

 家族には、秘密があった。藤村は双生児を産んだが、脚に痣のある男の子を川に捨てた。貧民窟の男(麿赤児)がその子を拾い、育てた。捨吉(本木二役)は貧民窟で育ち、りょうと男女の関係になる。捨吉が気まぐれに姿をくらましている間に、りょうは院長と出会い、院長夫人となったのだ。

 貧民窟の棲み処は汚い。襤褸切れをやけくそに纏っているような衣服。走りまわる動作は機敏で、キレがある。目つきは残忍で、精気を帯びた鋭さを放っている。塚本晋也が貧民窟のほうにシンパシーを持っているのは明らかだ。弱者が、その弱さ故に獰猛な生命力を宿すダイナミズム。弱者の捨て身の逆襲を自ら演じて来た塚本だが、本作では、貴賤双方の葛藤を、本木雅弘に託している。

本木雅弘の端正な表現力

 本木雅弘は、二十代前半から俳優活動を始め、90年代の本格的映画スターとして存在感を放った。周防正行監督「シコふんじゃった。(1992)」、杉田成道監督「ラストソング (1994)」、市川準監督「トキワ荘の青春 (1996)」、三池崇史監督「中国の鳥人(1998)」といった作品にて、美男だが線の細い男、という日本的スターの王道を歩んだ。

 端正に整った顔立ちだが、その美貌からは、ほんのりと「弱さ」が漂っている。強く、逞しい男ではない。危機を乗り越えていくヒーローでもない。女たらしでもないし、アナーキーな芸術家でもない。無個性で印象の弱い人物だ。

 しかし、彼の「弱さ」は、気高く美しい。ジョンレノンががなり立てる、あからさまな弱さではない。北野武が漂わせる位孤独の寂寥でもない。本木の「弱さ」は、先天的に洗練されているのだ。これは、やんごとなき貴種のみに受け継がれているものに違いない。

 市川雷蔵は、貴種の弱さを極限まで洗練させ、虚無の極北に立った。小田和正は、弱さを戦略的にデフォルメし、いたいけな処女たちを誑かした。本木は、そんな戦略家ではない。端正な振舞いから滲む自らの弱さを、爽やかな汗であるかのように眺めている。

 そうしてみれば、院長は、本木が生来持つ資質をたおやかに体現している。捨吉役は、従来の塚本映画であれば塚本自身が演じていた筈だが、本木は、ドラスティックな落差と同時に、双生児らしき同一性をも併せて巧みに表現し、塚本映画に、更なる深みと格を与えた。

日本の伝統としての貴賤

 ハリウッド映画のヒーローは、強い精神力と頑丈な肉体を持っている。とにかく打たれ強い。逆境に打ちのめされても、必ず復活し、敵を倒す。フランス映画の男優は、女たらしの甘ったれだ。酒にもだらしなく、自堕落な生活を送っているが、絶世の美女に惚れられ、いつも女たちに助けられる。

 日本人には行動力がない。敵と闘うことも、女を口説くこともしない。ただ、生きて、働いて、食べて、寝る。身の程知らずな野望など持たず、淡々と生きている。それが日本人だ。そして、日本映画だ。その精髄は、笠智衆なのだろう。

 敵と闘い続けてきた歴史を持つ欧米と違い、日本には敵がいなかったので、がむしゃらに行動したり、戦略を張り巡らしたり、必死に異性を獲得する必要がないのだ。同調圧力に逆らわず、世間の風潮をなぞって生きていけばいい。そこに風流という気分なんぞが産まれたりもする。

 個人の能力で人の優劣を判断せず、血縁で推定する。二千年以上続いている同民族の血流こそが、伝統の深淵なのだ。皇室の系譜が、その伝統を強固に支えている。優れた人は、行動などしない。労働は下流階級が担当するのだ。そして最下流に蠢く下賎の民は、芸能とともに流浪する。

 捨吉や麿赤児、貧民窟時代のりょうは、ガラガラと鳴る鈴のようなものを衣服に着けて、不必要にガチャガチャと走り回り、叫んでいる。労働している様子はみじんもないのだが、これが彼等の伝統なのだ。貴と賤は、表裏一体となって日本の伝統を下支えしてきた。

塚本晋也のパンク魂

1960年生まれの塚本晋也は、パンク世代だ。「鉄男(1989)」「バレット・バレエ(1999)」「悪夢探偵(2007)」といった諸作の世界観は、ストレートにサイバーパンクだ。荒廃した近未来で暴力が繰り広げられ、金属の打擲音が響く。この金属音は、ブルースギターのベンドではなく、ミュートを駆使したカッティングだ。田口トモロヲや中村達也といったパンク以降を代表するミュージシャンを起用しているが、彼等の鋭角的な存在感が、塚本のヴィジュアル世界を象徴している。

現在までの最高傑作は「六月の蛇(2003)」だろう。ここでは、塚本的金属の火花は、ブルーの水流に転化されている。金属的な水。激しい濁流となって排水溝に吸い込まれる青い水には、さまざまな毒性を持つ金属が含有されている。ストレートにパンキッシュな諸作から抜きんでて、「六月の蛇」が描く水の映像は、奇矯な生命力を含有しており、他に類をみない屹立の高みに達している。

「双生児」では、貧民窟の騒乱がまず想起されるが、最も卓越しているのは、井戸の描写だろう。1998年公開の「リング」を参照したのかは定かではないが、山村貞子が幽閉された恐怖の発酵とは全く異なる世界を現出させている。

井戸の底には、突き落とされた院長がいる。井戸を覗き込むのは、彼を突き落として院長になりすましている捨吉だ。二人は双生児であり、運命の定めというべく、誕生から約三十年後、井戸の上下で向かい合う。演じるのは二人とも本木だ。貧民窟育ちが院長に化け、院長は井戸の底で飢餓と恐怖に苦しみ、金属的な相貌となり果てている。しかし、貧民だろうが金属的な相貌だろうが、演じているのは、やんごとなき本木雅弘だ。田口トモロヲや塚本晋也ではない。太古から脈々と続く、格調高い美しさを失っていない。ここで本木が体現する貴賤の表裏一体は、自ずと皇室の永き葛藤を想像させる。

弱さの深淵

貴種の傍に卑賎が常に潜在する。両者の共通点は労働から解放されていることだ。労働は大きな達成感を人にもたらし、不可欠な成果物として、食料や金銭を得る。人は労働に携わり、時には苦しみながらも、同僚と力を合わせて仕事を成し遂げることを希求し、社会の生産を支える自負を強く持つ。人々は肉体的に、精神的に強くなっていく。

しかし、労働に「美」は宿らない。「美」を現出させるのは、「弱さ」なのだ。弱き者には、性的な、聖的な、同時にいかがわしい、尊さが宿る。それは強者が捻出したフィクションかもしれないが、フィクションを別枠として鎮座させ続けるのが、日本の伝統の神髄なのだ。塚本晋也は、本木雅弘のやんごとなき弱さに仮託して、そのダイナミズムを井戸の深さにて象徴してみせたのだ。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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