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スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」(2001: A Space Odyssey)1968 レビュー ネタバレあり

スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」(2001: A Space Odyssey)1968 レビュー ネタバレあり

壮大すぎるSF映画の金字塔

 1957年、ソ連が初の人工衛星の打ち上げに成功、1961年には有人宇宙飛行もソ連が成し遂げ、米ソの宇宙開発競争はソ連が一歩リードしていた。軍事技術への応用も重要な目的だったが、米ソの覇権争いのさなか、国家の威信の象徴として、宇宙開発は過熱していた。

 宇宙空間から見た地球の映像を初めて見た人々は、その青く美しい姿に感動し、クリエイターたちは創造力を刺激された。数多のSF作品が小説や映画として発表されるなか、巨匠キューブリックが作り上げたのが「2001年宇宙の旅」だった。

 しかし、この映画は、宇宙を舞台にした冒険活劇でもなければ、宇宙人の侵略をくい止める英雄譚でもない。人類黎明期の進化の謎から人工頭脳、三次元を超えた生命体まで、知的生命の偉大なる脆弱さ、といった壮大なモチーフを、極めて静謐に描いているのだ。

本物の鬼才

 1928年ニューヨーク生まれのスタンリー・キューブリックは、1951年には早くも監督作を世に出し、ハリウッド最後の黄金時代とも言える50年代に、切れ味鋭いオルタナティブな佳作を連打した。60年代に入ると、ハリウッドの製作システムと決別すべくイギリスに移住し、膨大な時間をかけて自身がすべてを掌握する製作スタイルを確立する。

 以降の作品では、ハリウッドメジャーでは絶対に製作できない類の、独自の作風を貫いたのだが、「2001年宇宙の旅」は、鋭敏な抽象性を妥協なく突出させた、映画史に残る最高傑作として評価され続けている。

具体と抽象

 昨今の日本は、「抽象」を軽視する風潮が強い。曰く「もっと具体的に話してくれないと、抽象的な話ばかりでピンとこない。」テレビのバラエティ番組は、過剰なほどにテロップを表示して、笑いどころや感動のポイントを視聴者に指示している。

 社会を円滑に運営するには、共通理解事項をある程度定めていくのが効率的だが、共通理解事項の定着には、様々な試行錯誤の積み重ねが必要であり、常に少しずつ改編され続けている。

 しかし、庶民はそんな改編のことは気にせず、目の前にあるコンセンサスをなぞって生きている。コンセンサスを幾度もなぞっているうちに、コンセンサスはステレオタイプに堕し、陳腐化する。陳腐化しても無頓着になぞり続けるうちに、わかりやすいステレオタイプが「具体的」と混同されていく。

エンタテイメントと前衛

 陳腐化したコンセンサスをベースに置いても、俯瞰して批評を加えれば、優れたエンタテイメントになる。対して、「前衛」を志向する芸術は、コンセンサスを疑い、その欺瞞を暴きだし、新たな視座を獲得しようとする試みだ。この試みには強靭な抽象能力が必要とであり、成功させるのは非常に難しい。

二線級の試みは、「前衛」を志向することそのものが目的となってしまい、低級なスノビズムに堕してしまう。ある程度成功したとしても、獲得した視座は難解すぎるものとなり、はなから、前衛だけを求めている観客にしか受け入れられないことも多い。

映画史上最も強靭な抽象能力を持った作家であるキューブリックが、自身の内部に渦巻く混沌を丹念に映像化し、成功させた作品が「2001年宇宙の旅」である。

猿人の歓喜

 映画は、400万年前の猿人の描写から始まる。猿人は既に他の動物と一線を画す存在となりつつある。彼等の一挙手一投足には充分に知性の萌芽を感じさせるが、決定的となったのが「道具」を使うことを発見したことだった。死んだ動物の骨を武器として使うことを覚え、その効果の大きさに歓喜した猿人は、その骨を空中高くほうり投げる。と、その骨が、人工衛星に切り替わる。人工衛星は、ヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」に乗せて、優雅に宇宙空間を遊泳する。

 このシーンの切り替えは、超原始的な武器としての「骨」と高度な技術が駆使された「人工衛星」が「道具」であることにおいて本質的に同質であることを巧みに表現し、「骨」と「人工衛星」の間に存在する様々な「具体」を捨象している。キューブリックの鋭い抽象能力は、この大胆な省略によって、無言のうちに人類文明をクールに批評している。

 人は、無意識のうちに、自分の生まれたころを起点として進化を判断してしまう。例えば「箸」は、単なる二本の棒のようにも見えるが、さまざまな食材を掴んだり切り取ったりする道具として、ナイフやフォークよりも優れている。この発明は、もしかしたらスマホの発明に匹敵するほど、いやそれ以上に、人々の生活を便利にしている。

 しかし、ルックス的にあまりにもシンプルな箸は、尊敬されることもあまりない。自分が生まれるよりはるか昔から当たり前に存在してきたものは、その素晴らしさを顧みられることも少ないのだ。

人間に挑戦する人工知能

 2001年、宇宙への旅は、木星へ向かうNASA特命の旅だ。選りすぐりの乗員5名と同行するのは、コンピュータ「HAL9000」である。「HAL9000」は宇宙船ジュピター号の細部まで自在に操るように設計されており、乗員たちは手動操作を一切行うことなく、「HAL9000」と会話することで、さまざまな操作を自動実行させることができる。

 音声認識を完璧に会得しているばかりか、人工知能として、考え、調べ、言葉を発することもできる。2019年のAIは、ここまでのレベルには遠く達してはいないが、いずれこんな存在が登場する可能性は高まったとも言える。

 乗員たちと「HAL9000」は、良き信頼関係のもと、木星への長い旅路を順調に進んでいくのだが、探査の真の目的を知らされていたのが「HAL9000」だけであったことから少しずつ亀裂が生まれる。恐ろしいことに、「HAL9000」が司っている宇宙船の安全機能に守られて航行している乗員たちは、その安全装置を少し外すことによって、簡単に「HAL9000」に殺害されてしまう。

 例えば自動車の自動運転もそうだが、人間のプログラミングどおりに動く筈の機械や装置、コンピュータは、想定外の動きを少し行うことで、簡単に人間を殺傷できる。果たして、コンピュータ/AIが自身の感情や意思を持つと、恐ろしいことになるのかもしれない。

 たった一人生き残り、危機を察した船長のボウマンは、単身「HAL9000」の中心部に乗り込み、その動作を停止する。

 光の濁流と、超抽象の世界

 ここから映画は、一切の説明を停止する。「HAL9000」が死亡したのであろうことは推察されるが、その状態で果たしてジュピター号は、木星まで航行できているのか?

 ボウマンがどういう状況にいるのかは、詳らかにされないまま、けたたましいほどの、光の濁流にカメラは突き進んでいく。

 「美しく青きドナウ」のゆったりしたワルツとは全く違う、前衛的な、人声の不協和音のもと、夥しい光は、さまざまにその色や輝きを変え、宇宙の時空を凄まじいスピードで、流れ続ける。例えば、アシッド的なロックのライブでも同様の文様がステージ後方に映し出されることは多いが、恐らくはこの映像になにほどか影響を受けているのだろう。

 最も抽象的な映像の極みともいうべきこの光の濁流のシーンは、かなり長く続くのだが、

映像へ没入を余儀なくさせられ、時間を忘れてしまうほどだ。

白い部屋

 そして、ボウマンが辿り着くのは「白い部屋」だ。木星近く、宇宙の磁場を急激に流されていたのだろうとは思っていたが、行き着く先が「白い部屋」とは。

 この部屋の立て付けや装飾は、どうみても地球、それもヨーロッパ風の高級感あふれるものだ。なぜ木星にヨーロッパ? それともここは地球?

 ここから先は、文章では説明不可能だ。覚悟してこの不可解な映画に挑戦するしかない。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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