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降旗康男監督 「夜叉」 1985 感想

降旗康男監督 「夜叉」 1985 感想

雪景色と高倉健

高倉健は、いつも吹雪のなかを歩いている。厳しい寒さのなか、黙々と労働する男、それが高倉健だ。「夜叉」の舞台は、若狭湾の小さな漁港である。高倉は漁師だ。妻(いしだあゆみ)と妻の母(乙羽信子)、子供3人を養っている。田中邦衛や丹古母鬼馬二など、漁師仲間からも篤く信頼されている。

福井県美浜町と若狭町にある5つの湖の総称を「三方五湖」という。若狭湾は、複雑に入り組んだ海岸線を持つが、更に「三方五湖」が隣接しており、陸地と水辺が奇勝なコントラストを形どっている。そんな土地に雪がしっとりと降り積もり、幽玄な異境の光景を呈している。

港町の住居や街並みには、古い歴史の積み重ねがどっしりと根を下ろしている。北陸のなかでも舞鶴や天橋立に近いこのあたりは、関西の文化圏だ。大阪・ミナミとの往還がこの映画の大きな主題ともなっている。美しい風景はそれだけでも充分絵になるが、この港町に高倉健が暮らし、漁を営んでいるのだ。この絵柄は、ほとんど美術工芸品だ。

もっとも、高倉は少し格好良すぎる。田中や丹古母たちのほうが、リアルに田舎の漁師だ。高倉健が映画スターとして君臨し続けたのは、東映のヤクザ映画だった。極道の猛々しさと粋を寡黙に体現したアウトローの美学。1980年代の降旗康男監督とのコラボ諸作は、そのテイストをソフィスティケートした傑作群だが、「夜叉」の映像の美しさは、その頂点に立つ。健さんは、格好良すぎていいのだ。

旬の助演俳優陣

いしだあゆみは、いつもの、いしだあゆみだ。身勝手な男に翻弄され、神経を高ぶらせながらも、必死に自身の大事なポイントを守ろうとする女。元ヤクザと知りながら高倉を愛し、平凡な家庭を作ろうとする妻だが、高倉同様、いしだも平凡な女などではない。

田中裕子は、ミナミから流れてきて、港町に居酒屋を開く。仇っぽい色香で漁師たちを魅了し、店は繁盛する。しかし、生来田中は、色っぽい女ではない。事務職OLが似合うような地味な女だ。プロの女優として、本来の自分とは異なる役柄に挑戦し、そのパーソナリティを獲得するごとに、本来の自信も更新されていったのではないか。そんな更新をスタートし始めた頃の田中は、生々しくときめいている。

ビートたけしは、「戦場のメリークリスマス」で俳優としてブレイクした少し後、お笑いタレントとしての絶頂期のころだ。俳優としてのたけしは、自身の監督作への出演も含めて、ほとんど同じキャラで存在感を示しているが、この頃はまだ、ちんちくりんなダメ男だ。田中裕子のヒモとして港町に現れるたけしは、麻薬を漁師たちに売りさばくが、自身も重篤な中毒であり、ミナミのヤクザに多額の借金を背負っている。こんな小悪党が、刃物を振りかざして、風光明媚な港町を走り回る。本物の極道である高倉との対決は、映画史に残るシーンだろう。

日本海と大阪のコントラスト

たけしは、借金で首が回らなくなり、ミナミのヤクザに軟禁される。高倉が助けに行く。ミナミへ戻っていくとき、漁師の朴訥さの面影は一掃され、「切った張った」の世界に住む玄人の顔つきになる。

敦賀駅から大阪駅まで、そう遠くない。特急サンダーバードで、1時間半足らずだ。陸と海の端境の、雪に閉ざされた世界から、ミナミの猥雑なネオンに舞台は移される。

道頓堀、千日前あたり。大阪風の馴れ馴れしさをフィーチャーしながら、大都会の本質である酷薄さも複雑にミックスされ、日本中でここにしかない空気を漂わせている。この地で飲み疲れた果てにどんより歩く際の、不思議に優しい空気。水商売の女たちの爛れた倦怠感。関西最大の都会、歴史の重みをどっしりと感じさせられる。

高倉は、関東のヤクザを演じることが多く、関西風のえげつない空気は纏っていない。たけしも、生粋の関東人だ。役の設定では、高倉は「ミナミの夜叉」なのだが、ディスコ風の悪趣味な店に軟禁されたたけしを取返しにいくシーンでは、関東人が、異境の大阪ヤクザの本丸に乗り込んでいくような様相を帯びる。このシチュエーションで高倉を上回る侠気を発散する男は、古今東西存在しない。立ち回りはあくまで渋く、あまりにも鮮やかで、暴力的な性的オーラを強く発光している。

対して、救われて逃げるたけし。卑怯で気が弱いのに、身分不相応に虚勢を張って、大げさなことをやらかしてしまう男。母性本能をくすぐって、女を食いものにしているようでいて、実は女に依存している男。

高倉ほどに強い男など、現実にはそうそういない。暴力の闘いを勝ち抜く世界に生きていないと、ここまで肝の据わった男にはなれない。しかし、たけしのように自堕落に落ちていくことにも、別の覚悟がいる。

ほとんどの男は、若狭湾でもミナミでもなく、埼玉に住んでいるのだ。

降旗康男の美学

降旗康男は1963年に東映で監督デビューし、高倉健の主演作を撮り続けた。二人のコラボは、東映という会社が決めた配置だったのだが、双方が東映を退社後も、晩年まで並走を続けた盟友である。

東映時代の「捨て身のならず者(1970)」では、高倉のお洒落なスタイリッシュぶりが印象に残る。三つボタンのスーツと、ステンカラーコートの着こなしが抜群。「不器用」が代名詞の高倉だが、「夜叉」での、セーターと長ゴム靴の漁師姿もバッチリ決まっていて、他の漁師たちと差別化されている。「あ・うん(1989)」では、昭和初期の美しい街並みを背景に、富司純子、板東英二との絶妙なコラボを見せた。ここでも高倉の三つ揃いスーツ姿は、惚れ惚れするような男っぷりだ。

降旗は、強い作家性を持つ映画監督ではない。市井に生きる一般の人たちのドラマを、味わい深く描き、大衆にウェルメイドなエンタテイメントを提供した職人だ。東京よりも、地方の街を滋味深く映した映像が印象に残る。「駅 STATION(1981)」、「居酒屋兆治(1983)」で描いた北海道の雪景色にも、高倉の姿がどっしりと聳えていた。

高倉もまた、エキセントリックな個性を売り物にする俳優ではない。禁欲的に私生活までも律して、謙虚な姿勢で撮影に臨んでいたさまは、多くの逸話が物語っている。

正義を貫き、情に厚い男。無駄口は叩かず、黙々と肉体労働する。しかし、ここぞというところでは、激昂もし、暴力も振るう。キーワードは肉体労働だ。

はぐれ者の美学

明治維新以後、昭和まで、男の仕事は肉体労働だった。トンネル工事、道路工事などの建設業に従事する男たち。農村の村社会とは違い、彼等は短期に雇われたよそ者、流れ者だった。農村の畑仕事は、血族が長期的に運営している仕事であり、労働は女房や家族とシェアされ、生活すべてが労働に直結していた。

自動車道路、海岸や河川の護岸や橋梁、鉄道の線路やトンネル。日本の近代化にあたって、国土が急ピッチで整備された。剛健な男たちの腕力が作り上げたインフラの利便性を、現代、我々はたっぷりと享受しているが、もう肉体労働している男は少ない。

昭和時代、男だけの肉体労働の現場、仕事後の安い酒場。単細胞で荒々しい彼等は、喧嘩っぱやく、強い男を尊敬していた。彼等の「兄貴」を体現していたのが高倉健だったのだ。

「夜叉」の高倉も漁師仲間から尊敬されているのだが、土地に根差した男ではない。ヤクザの成れの果てであるからこそ、はぐれ者のオーラが男の美学を発散し、「兄貴」として慕われるのだ。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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