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小津安二郎監督 「秋日和」 1960 感想

小津安二郎監督 「秋日和」 1960 感想

甘いコミュニティー

「秋日和」は、3種の人間関係グループの話だ。1つ目、未亡人である原節子と娘の司葉子。仲の良い親子の双方に縁談が持ち上がることで、関係性にさざ波が起こる。2つ目は、佐分利信、中村伸郎、北竜二の古い学友だ。インテリである彼等は、社会的ステイタスの高い立場にいるが、学生気分のままじゃれあっている。3つ目は司葉子と岡田茉莉子。会社の同僚で仲の良い友人だが、気丈な岡田が幼さの残る司を叱咤する仲でもある。

3つのグループが互いに相関関係を持ちながら、穏やかな秋日和のようなホームドラマが展開していく。彼等は皆、善人である。毎日を楽しく慎ましく、生活している。彼等だけでなく、周囲にも悪人などいない。スマートな都会である東京には、美味しい料理屋やバーがたくさんあり、日本家屋の落ち着いた自宅には、しっかりものの妻が、家庭を守っている。

縁談を巡る話の行き違いが、様々な誤解を生むことでこの映画のストーリーは進む。悪友三人組は、学生時代の恋愛話に興じたりもするが、ここにはセックスの淫靡な匂いは全くない。性交は子供を作るための夫婦の営みであり、それ以外の目的など汚らわしいと誰もが思っている。婚前交渉は絶対に許されないし、この映画でそんなことは起こらない。

昭和35年、日本の中流から上流家庭はこんなものだったのか。これは、人生の苦労など何もない、甘っちょろい桃源郷ではないか?

エリートの稚気

佐分利、中村、北の3人組は、何かといえば集まって酒を飲んでいる。夜だけではない。佐分利は会社に役員の自室を持っており、昼間から来客と称して中村や北がやってくる。原節子や岡田茉莉子や司葉子まで、佐分利の会社を訪れる。

当然彼等の要件は、佐分利の仕事と何の関係もない。原の来訪時など、余程嬉しかったのかそのまま昼食に出かけ、ビールなど飲んでいる。

3人とも当時50代前半。年輪を経た貫禄と、かくしゃくとした余裕がにじみ出て、男としての風格がある。スーツの着こなしも着実だ。しかし、仕事はあまりしているようには見えない。

おそらく彼等は東京帝大の同級生なのだろう。戦争にも士官として従軍した後、インテリの王道として会社役員や大学教授を務めている。しゃかりきに働いてはいないが、会社の経営に関する厳しい決断を捌いているのか。

もしかすると今の日本に欠けているのは、こういったインテリ像ではないだろうか。戦後民主主義の世間は、エリートを嫌う。額に汗して働くことこそ美徳であり、教養よりも、実務的な生活力のほうが評価される。勉強ができるよりもスポーツ万能のほうがカッコいい。「現場」が最高のキラーワードだ。「現場を知らないインテリ」という存在は、ステレオタイプに打棄される。

重役室で判子を押しているだけの佐分利が現場のことを知っているようにも思えない。しかし、現場に近すぎる人間は、決断を鈍る。「現場A」と「現場B」では事情が違い、どちらにも血と汗の結晶が宿っているのだが、いづれかを切り捨てることも時には決断しなければならない。

酒を飲みながらウダ話ばかりしている彼等だが、エリートの決断の厳しさは知っているのだろうか。

守られていた女性

仲の良い父と息子というのはあまり見ないが、仲の良い母と娘は多い。原節子の夫は、悪友3人組の親友だったのだが、若くして亡くなっている。残された原と娘の司葉子は、姉妹のように睦まじい。原の容貌が若く美しいので、知らない人には姉妹と見えたりもするのだろう。

24歳の司に、方々から縁談が持ちかかる。原はごく自然にそれらを娘に奨めるが、司は肯んじない。母を一人残して嫁に行けない、というのが主たる理由らしいが、母への精神的依存が強く、親離れできていないというのが本当のところだ。男性との交際経験もなく、初心なだけだとも言える。丸の内の大企業に勤めているので、暇を持て余しているわけでもない。

3人の悪友は、司の縁談を世話したいのだが、それには、まだ充分に若い母の再婚の画策が必要になってくる。母が再び嫁げば、娘も自然と気持ちがきりかわるだろう、という理屈だ。彼等の画策は、北自身が原の再婚候補として出馬を仄めかすところから迷走し始める。北と原の再婚を嫌った司が、却って態度を硬化してしまうのだ。司の世間知らずぶりは、微笑ましくあるのだが、ちょっと度を越している。

思えば、現代の女性は厳しい環境にいる。司のように初心で世間知らずでいることは、もう社会的に許されない。当たり前のことだが、女性は低く見られていたと同時に、多くの責任を免除されていたのだ。厳しい仕事をこなさなければならないし、結婚しても仕事をやめられない。結婚相手も自分で探さなければならないし、セックスで傷つくことも多い。

当時の社会に存分に守られていた司は、わがままを散々言いながら、結局は佐分利の推薦した佐田啓二と勝手に付き合って、結婚してしまう。

岡田茉莉子という妖女

どこか戦前のメンタリティーを引きずった佐分利たちや原母娘に比べて、圧倒的にロジカルでドライな存在として岡田が登場する。思えば、岡田茉莉子という女優は、小津映画に全くそぐわない。戦前の二枚目俳優、岡田時彦の娘である岡田は、成瀬巳喜男監督畢生の名作「浮雲」で頭角を表す。伊香保温泉の宿屋の主人である加東大介の年の離れた女房。森雅之を温泉風呂で誘惑するコケティッシュな女だ。

昭和初期のデカダンな芸術の血筋を引き、エロティシズムを強く発散する岡田は、「秋日和」でもシースルーのブラウスを着ていたりする。

 北竜二と原節子の再婚話にショックを受けた司葉子は、親友の岡田の営む寿司屋へ駆けこむ。司の甘ったれた話に安易に同情しない岡田は、却って彼女の幼さを諭し、当ての外れた司は自宅へ帰ってしまう。

 事態を重く見た岡田は、北、中村、佐分利の職場を訪れ、彼等の画策の稚拙さを詰問する。3人をとっちめた岡田は、北にしこたま奢らせ、最後には自宅の寿司屋に連れていく。そもそも原の再婚には賛成である岡田は、ここで北の財力と、人となりを検分するのだ。北に原を幸せにするようコミットさせた岡田は、実家の商売にも大いに寄与させたわけだ。

 日本的な曖昧さに佇む北、中村、佐分利、原、司に対して、自らの意志を明確にし、貫徹することを説く岡田。これは、小津的な存在ではない。

 岡田は、吉田喜重監督の名作「秋津温泉」で再び温泉の女将を演じ、「浮雲」的にグダグダな腐れ縁を相対化してみせた。吉田との結婚後、吉田の難解な前衛映画の核として、欧州の女優のように、性の深淵を探るキャリアを積んでいくことになる。

小津の自己韜晦

 母と娘。父と娘。家族の絆の強さとはかなさ。一貫として同じテーマを描いてきた小津だが、「秋日和」では、少し自己韜晦しているように思える。岡田茉莉子だけでなく、司葉子も、小津的な価値観より新しい感覚を持った女優だ。彼女たちだけでなく、有馬稲子や若尾文子、岩下志麻を登場させても、かつての原節子のような若い娘の手弱女ぶりを体現させられない。

小津晩年の諸作は、若い世代の女優との格闘と小津の敗北の記録なのである。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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