シネマ執事

小津安二郎監督 「浮草」 1959 レビュー ネタバレあり

完璧な絵画

 港町は真夏の陽射しに照らされている。水平線で空と海はおおらかに結ばれ、坂道も石垣も家屋も、ゆったりと夏へと開かれている。微風が風鈴を揺らしているが、女も、手にした団扇で艶めかしい風を送る。すべてが碧く揺蕩うなか、赤いポストだけが、けばけばしさを主張する。

 美術館に飾られるような絵画ではない。長い歴史を受け継いだ志摩半島の港町。伊勢神宮の近在であることは偶然ではない。売春島として知られた渡鹿野島、三島由紀夫「潮騒」の舞台である神島もそう遠くない。聖と俗が、長い年月をかけて幾重にも混交され、培われた民衆の暮らし。尾道やニースに比肩される街だが、私はエーゲ海のミコノス島を連想した。

 ここは、小津安二郎のホームグランドである、深川や鎌倉のようなハイソな街ではない。絵画は、庶民の喜怒哀楽を織り交ぜて、原色で描かれている。現代の動画は、映画でもテレビでもYouTubeでも、ほぼ現実と同じ色彩を表示することに成功している。しかし、「浮草」の色彩は、「動画」ではなく、「絵画」だ。合成着色料たっぷりのメロンジュースのように、濃く、けばけばしい。この色彩の世界で、現実離れした美女、京マチ子が煙草を吸う。これは、現世のものではない。志摩半島に船でやってくる旅芸人一座、チンドン屋風に路地を練り歩く俳優たち。後を着いていく半ズボンの子供たち。「日本」という桃源郷は、ここにあった。

 小津は、松竹映画の巨匠だが、「浮草」は唯一、大映で撮られた作品である。いつものように、東京や鎌倉を舞台にしていない。小津調の棒読みセリフはあまり導入されず、ベテランの役者たちは大いに芝居がかっている。若手の若尾文子、川口浩だけが棒読みを強いられるが、これが奏功し、ラブストーリーは、純粋に美しく輝く。下駄の音と浴衣の衣擦れが、サラサラと淫靡なセクシーさを導く。

 この映画は、風の映画だ。隙間の映画と言ってもいい。家屋の入口や奥の間はフルに開放されており、虫の音が聴こえるなか、皆が団扇を仰ぐ。素足、半袖、開襟シャツで、涼を素肌に取り入れる。日本の夏、という桃源郷で、若い二人はナチュラルに恋に堕ちるのだ。

至高の名演

 旅芸人一座に三井弘次と田中春男がいる。べらんめえ口調で話す三井は、いかにも旅役者らしい、蓮っ葉な男だ。飲み屋の年増女に粉をかけたりして、結構もてている。関西弁の田中は、ちょっとボンボン風。好色な点は三井と同じだが、田中の目当ては、床屋の娘(野添ひとみ)だ。若い娘好みなんだろうが、母親に邪険にあしらわれる。

 一座の休日、三井と田中は、海水浴をしたり、飲み屋で酎ハイを飲んだり、無為の時間を過ごす。普通の男たちの普通のだらしなさが、夏に溶けていく。

 京マチ子は、この世の女ではない。すべての所作が芝居がかっている。こんな女座長がビザールな芝居を打ち、漁港の民衆の余興となる。地道な生産を生業とする定住民と、ヤクザな非定住民の邂逅。あたかも中世のように、異なる階層が緩やかに交歓する。

 若尾文子と川口浩は、何度も他の映画で恋愛しているのだが、すべて忘れたくなる。川口の勤める郵便局の窓口に若尾がしなだれかかる。誘惑するはずの若尾も惚れてしまい、二人は幼い駆け落ちを決行する。都会の雑多な情報に汚されない古典的な純粋を、夏の夜風が優しく撫でて過ぎる。

 杉村春子は、どこにいても杉村春子だ。居酒屋の女将にしては、ちょっと粋過ぎないか? 別の店にいる桜むつ子や賀原夏子には、秘境の妖気が漂っているのに比べ、如何にも都会風な玄人女だ。あるいは杉村は、この地の出ではなく、向島あたりの芸者上がりなのかもしれない。そう思うと、旅回りの中村鴈治郎との関係も、如何にもな間柄。

 鴈治郎と杉村の仲が露見したことで、京マチ子の怒りが爆発する。土砂降りのなか、狭い路地の両側で罵り合う二人の、切った張ったは、映画史に残る名シーンだろう。上方歌舞伎の人間国宝である鴈治郎が、存分に魅せる関西風の芸事の薫風が、この映画の全編を支配している。

開放と脱力の日本

 コロナ騒動もそろそろ鎮静化しそうに見えるが、この騒動こそ、日本的な「粋」の正反対だ。コロナの死者は、インフルエンザや自殺、交通事故の死者に比して圧倒的に少ない。そもそも人間も含めて生物はいずれ死ぬものだ。当然、コロナも生態系の一部だろう。身近な人の死はあまりにも悲しいし、死は大きな尊厳を有するものだが、だからこそ、自然に粛々と受け止めなければならない。自然災害の多い日本は、自然の脅威と死の尊厳を深く感じながら、リセットされた土地で、スクラップ&ビルドを続けてきたのだ。

 「浮草」の人物たちは、ゆったりと夏を過ごしている。家々の問戸は開かれ、誰でも自由に出入りできる。街を練り歩く三井弘次は、公演のチラシを全開の門戸にパラパラと投げ入れる。床が散らかるのだが、家人も全く気にせず、団扇をあおいでいる。

 団扇の存在が示唆的だ。現代の冷房は密閉した空間を冷やしているが、日本人は冷やすことより、風とおしの涼しさを愛した。障子戸は空気を密閉しない。和服や下駄もしかり。 ゆるりと肩の力を抜き、何事も粛々と受け止める。春夏秋冬の四季の移り変わりは、過去への未練と未来への希望を同時に培い、懐の深い人となりを育み続けた。戦争や疫病で多くの人が亡くなっても、美しい自然が静かに見守ってくれている。国破れて山河在り。

諦念を上回る情感

 小津は、諦念の作家だ。家族の情愛や人間の文明を小さく愛しながら、大きく諦めている。高層ビルや赤いポストへの偏愛から測れるように、奇矯な人工物を愛し、人工的なまがい物を創るつもりで、偏った美意識を映像化し続けた。自ずと、小津の映画は、起伏に乏しいストーリーとなる。東京の中流階級の日常は、スタイリッシュにも映り、都会の風景は、粋に映えたりもする。そんななかに、薄っすらとじんわり沁みるように、悲哀を数滴垂らす。工芸品のような頑固さに満ちた、奇矯な作品群だ。

 ところが、「浮草」は、全く違う。風光明媚な港町、純粋な若者のボーイミーツガール。異境からやってくる旅役者。座長夫婦は、根っからの上方芸人。凡庸な予定調和を怖れず、古典的な物語要素をストレートに配置する。感情を露わにして、非東京的に無粋な、おっさんとおばはん。凡庸な色恋沙汰は、凡庸に進み、凡庸に収束していく。

 鴈治郎、杉村、若尾、川口が対決する、ラスト近くの愁嘆場は、古典芸能のような見せ場となる。玄人は幸福な結婚などしないし、そのことを痩せ我慢で流しているが、息子はどうだろう。誠実に明るい川口とて、今後つまらない余剰物に蝕まれていくかどうか、誰にもわからない。ましてや、若尾のような女は、堂に入った悪女になりそうな素質が大いにありそうだ。松竹の俳優にはない、大映俳優陣の我儘な個性が、小津が普段は見せない熱情を呼び起こしている。

鴈治郎、京が最後に寄り添う汽車のラストシーン。二人が吸う煙草、指しつ指される熱燗は、嗜好品が人生の苦みに効くことを天下の名優二人が、これ以上ない粋な姿で見せつけてくれる。普段の小津は、こんなに決まった画は恥ずかしくて撮れないはずだ。

「浮草」に、諦念はない。平凡なストーリーテリングに徹した小津が、これほど深い情感を映し出していたとは、驚くほかない。                          

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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