シネマ執事

森田芳光監督 「模倣犯」 2002 レビュー ネタバレあり

薄っぺらい巨匠

 森田芳光は、薄っぺらい巨匠だった。森田は、世界の薄っぺらさを鋭く描き、その虚構性をエンタテイメント化した。最もこの主題を先鋭化したのが、「模倣犯」だ。しかし、「模倣犯」は、評価されていない。「何がいいたいのか、わけがわからない」「監督の自己満足」などと酷評されている。しかし私は、虚構性を増す世界を、鋭く切り取った傑作だと断言する。

 宮部みゆきの原作小説は、文庫本で5巻にも及ぶ、長編ミステリーだ。人物の心理が細かく描写されており、読者を引き込ませるストーリー展開と相俟って、壮大な物語世界を構築している。

 当然ながら、映画は原作とは別物だ。豊穣な物語を極度に相対化し、フィクションとしてのリアリティを削ぎ落としている。削ぎ落す過程でメタ要素を追加し、フィクションの虚構性と混交させる。出来上がる映画は、観客を引き込み、心を打つものではない。むしろ、常識的な世界感を持つ観客を突き放している。

相対化こそが、1980年代の象徴であった。相対主義の旗手として登場した森田が、20年のキャリアを積んで、より大きな相対的破壊をしかけたのが、「模倣犯」なのだ。

薄っぺらい主演俳優

 主演の中居正広は、映画が始まって45分後に、ようやく登場する。これが監督の意図であることは、DVDのオーディオコメンタリーで森田自身が語っている。しかし私は、初めてこの映画を観たとき、45分もの間中居が登場していないことに気づかなかった。これはどういうことか。

中居が主演であることは事前の情報として充分に承知している。人気タレントである中居は、私だけでなく、誰でも良く知っている。観客の無意識に彼の存在は深く刷り込まれており、彼がこの映画に登場している姿は、予告編やテレビでの告知、CMやチラシで既に視ている。中居自身が登場する本編映像よりも、中居が主演であるという事前情報のほうが、重視されているのだ。

 森田は、中居が不在の間、御大山崎努に一生懸命芝居させている。山崎は、正体を表さない誘拐犯の指示に右往左往させられるのだ。映画初主演の若造である中居が、45分も遅刻し、更には陰で指示をするとは、大ベテランに対して、あまりにも失礼だろう。

 「侍ジャパン公認サポーター」として登場する姿が象徴するように、中居の存在感は、かなり薄っぺらい。そんな誘拐殺人犯と、豆腐屋一筋の職人。殺人犯が、豆腐屋の生産性の低さや、グローバルな視点の欠如を嗤う。そして、45分待たせて登場する中居の芝居も、当然のごとく薄っぺらい。森田の意向にこれほど適任の主演俳優はいない。

山崎努が受ける因果応報

 山崎努が誘拐犯からの脅迫電話を受ける。これは明らかに、「天国と地獄(1963)」の因果応報だ。「天国と地獄」で山崎は、大企業の取締役である三船の息子を誘拐しようとしたが、誤って運転手の息子を誘拐してしまう。しかし、中居的な薄っぺらい知能犯である山崎は、柔軟に施策を変更する。自分の息子なら身代金を出すが、運転手の息子なら見殺しにするようなことは、世間の評判を考慮すると、出来る筈がない。山崎は、偽善が同調圧力を産み、マスメディアが増幅する傾向を鋭く読み取り、狡猾に利用している。「STAY HOME」によってテレビの視聴率があがることは、自明の事実だろう。

 39年前の誘拐犯は、薄っぺらい正義感を振りかざして、社会や権力に反旗を翻しているつもりになっていた。自分も含めた貧乏人が住む、薄汚い路地裏と、金持ちが住む高台の豪邸の格差に憤りを覚えていたのだ。

しかし2002年の誘拐犯に、そんな紋切型の正義感などない。相対主義の極北にいる森田=中居は、そんな義憤を最もダサいものとして忌み嫌っているはずだ。誘拐の目的など、特にない。相対主義の果てには、虚無しかない。虚無に耐えていくには、遊ぶしかない。意味のない遊びを続けていかなければ、退屈で死んでしまうだけなのだ。

細部の薄っぺらさ

 「模倣犯」は、全体のストーリーや骨子に奉仕することのない、無意味な細部を意図的に鏤めている。

 山間の駅で津田寛治にナンパされる角田ともみの素晴らしすぎるスタイル。手足が長く、スラっとした股体で颯爽と歩く姿は、リッチなリゾートの排他感を象徴しているかのようだ。しかし、「背が高すぎる」という理由で中居に却下され、スルーされる。中居の判断の基準とは何だったのだろう。

 津田と交際するが、殺される小池栄子。小池は、「接吻(2008)」の圧倒的な演技が絶品だったが、その後も「乱暴と待機(2010)」「八日目の蝉(2011)」等で、土着的ともいえるエキセントリックな女性像を痛烈に印象付けた。「模倣犯」では、その嚆矢ともいえる存在感を垣間見せた。

 小木茂光は、山崎努の娘婿だが、徹頭徹尾、無責任な態度をとり続ける。ここまで分かり易く無責任であるのは、森田や小木に何らかの意図があるとしか思えない。この映画は、山崎以外に手練れの演技者をあまり器用していない。数少ない演技派である小木と山崎の絡みは深みのあるものになりそうなのだが。

 平泉成とモロ師岡がいる捜査本部。あまりやる気のなさそうな彼等に、中居や共犯者である津田との対決シーンはめぐってこない。彼等は「刑事ドラマに毎回出ている俳優」という記号を示しているに過ぎない。

 何よりも伊東美咲。この映画の悲劇のヒロインである伊東が、中居や津田と接触するシーンが一切登場しない。孫娘である彼女を山崎が失ったことが、最大のテーマであるにもかかわらずだ。伊東もまた、映画後半にはほとんど登場しなくなる。死んでいるのだから、当然だが。

価値の崩壊

 中居は言う。「何で僕のレベルに来てくれないんだ。」山崎は言う。「お前の幼稚な犯罪など何の意味もない。」その通り。しかし誘拐犯罪だけではない。この世界すべてに意味がないことに何故気づかないのか? 

 家族を愛すること。夢に向かって挑戦しつづけること。本当にそんなものが、素晴らしいのか? 分かり易いテンプレートでコーティングされた耳ざわりの良い言葉たち。感動をありがとう。オリンピックにはびこる偽善など、まだ生易しかった。

 コロナウイルスの蔓延を媒介として、全世界的に、偽善は一気にブレイクしている。若き日の山崎や中居のような、斜に構えた虚無など、まだまだ可愛いものだった。本当に恐ろしい虚無は、偽善という最強の衣装をまとって、世界に君臨してしまったのだ。

 山崎は言う。「豆腐づくりにしても、毎日同じことの繰り返しではない。少しずつ違った工夫を重ねて、年輪を積むことによって、仕事の喜びは培われていく」偽善によって価値が崩壊しても、また、じっくりと作り直せばいい。漫然と同じことを繰り返すのではなく、少しずつでも創意工夫を繰り返していく。

 森田芳光は、「ピンクカット 太く愛して深く愛して(1983)」で、モラルの軽やかな崩落を描き、「家族ゲーム(1983)」で家族の崩壊を不気味に嘲笑し、「ときめきに死す(1984)」で貴種の弱体化を描き、「それから(1985)」でモラルの無力さを提示した。さまざまな価値が嘲笑われた1980年代を総括して、「そろばんずく(1986)」では、ナンセンスの極みに達した。

そうして森田自身が手を貸してしまった価値の崩壊は、21世紀を迎えるとともにほぼ実現が終わったのだが、その宣言とも言えるのが、「模倣犯」だった。

                                         

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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