シネマ執事

是枝裕和監督 「空気人形」2009 レビュー

世界への愛情

ダッチワイフが、心を持ってしまう。産まれたばかりの純真な心を持つ「空気人形」は、街へ出て、人々と出会う。世界を知らない「空気人形」にとっては、目にするもの全てが新鮮で、驚くことばかりだ。出会った人との心の交歓が産まれる。まっさらな感性で、雨だれだの、ラムネ瓶だのを慈しむ。

是枝監督は、きっと、こよなくこの世界を愛しているのだろう。人々の思いが積み重なっている、この国を慈しんでいるのだろう。人の思いは、必ずしも建設的で効果的なものばかりではない。人は、哀しみを抱えて生きている。その哀しみは、街の隅々に潜んでいて、時折ひっそりと顔を覗かせる。

哀しみだけではない。世界には喜びもたくさん存在するが、これもまた、至る所に満ち溢れている訳ではない。哀しみも喜びも、あまり露わにはしないのが、人々の慎みであり、そんな慎みや恥じらいこそ、愛すべきことなのかもしれない。

慎み深い映画監督も観客も、「空気人形」の眼を通してであれば、素直に世界の素晴らしさを共有することができるのかもしれない。

 

空気人形の愛らしさ

「空気人形」を演じるペ・ドゥナが素晴らしい。彼女の表情や言葉は、本当にたった今人間の心を持ったばかりとしか思えない。この存在感にリアリティがあるからこそ、彼女の好奇心が様々な東京と出会うときに、観客は微笑ましく見守りたい気持ちになる。と同時に、よく知っている筈の東京が、彼女の眼にはどう映っているのか、気になったりもする。

例えば井浦新は、彼女をお台場海浜公園へ連れていき、「こんな海でも」と言う。井浦も観客も、お台場の海は人口の砂浜だと知っているが、彼女は知らない。初めて海を見たのだ。

ここで、観客は海を初めて見たときのことを想い出す。見た海はそれぞれ違うにせよ、誰しも幼い感性に何かを与えられたはずだ。

監督も観客も、「空気人形」の「初体験」を通して、世界の美しさを追体験する。彼女がいったい何を感じとっているのか、本当のところはわからないのだが。

 

ディスコミニケーションを前提としたラブストーリー

「空気人形」は、井浦の働くビデオショップでバイトするようになり、彼とデートを重ねる。やがて井浦は彼女がダッチワイフであることに気づくが、自らも内部に空白を抱えている彼は、彼女へのシンパシーを深める。

二人の恋愛は、奇妙な様相を呈している。彼女はとにかく世の中のことを何も知らないので、井浦は優しく、一つずつ教えていく。しかし彼女がそれらを本当に理解しているようには見えない。

昼間は井浦と楽しい時間を過ごす彼女だが、夜は元からの持ち主である板尾創路の性欲に奉仕しなければならない。板尾は5,980円を支払ってダッチワイフを購入したのだから、当然その権利を有している。しかし、「空気人形」には、心を持っていなかった頃は苦痛ではなかった性行為や、その他諸々の疑似恋愛行為が、今となっては疎ましい。

板尾はファミレスで働く、うだつの上がらない中年男で、中央区湊あたりの古いアパートに住んでいる。彼は職場でも客や上司に面罵されるような男で、「空気人形」との疑似恋愛だけを心のよりどころにしている。

心を持ったのならば、板尾など棄てて、井浦のもとへ行けばいいような気もするが、実際はそうでもない。

「空気人形」を紛失したと思った板尾は新しい「空気人形」を購入するのだが、彼女はその前に立ちはだかり、前任である自分との待遇の違いを詰問する。そのトーンには嫉妬が含まれている。純真な心は、少し複雑化しつつあるのだ。

 

現代を体現する俳優

「空気人形」を巡って三角関係となる井浦新と板尾創路。それぞれ異色の出自ながら、現在の日本映画を代表する俳優が、ここでも、圧倒的な存在感を示している。

井浦新は、ファッションモデルとして活躍した後、「ARATA」という芸名で俳優デビューした。長身でモデル体型の青年だが、その表情には屈折した内向性が窺えるタイプで、どちらかというとアート志向の映画に出演してきた。年を重ねて俳優としての滋味が出てきたころから、晩年の若松孝二監督に寵愛され、「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち(12)」への三島役での出演を機に、芸名を本名の「井浦新」に改めた。

「空気人形」でのビデオショップ店員も、平凡で大人しそうな青年が、実は内部に空洞や闇を抱えていることを、少しずつ露見していくさまを、巧みに表現している。

板尾創路は、お笑い芸人出身で、自身の映画監督作品も3本ある。パブリックイメージとしては、決して社会的に成功していない、うらぶれた中年男。情けない人生を送っているが、性的嗜好はかなりエキセントリック。

本作の忘れられないセリフの一つは、板尾の「もとの人形に戻ってくれへん?」だ。心を持った「空気人形」と新しいダッチワイフとの間で、妙な三角関係に陥った板尾が言い放つ。「こういうのがめんどくさいねん。」生身の女性との精神的葛藤が面倒だから、ダッチワイフで済ましているというのは、ある意味合理的とも言える。しかし、板尾の性的嗜好の変態性は、そんな単純なものではないような気もするが。

井浦も板尾も、現代的な病巣に蝕まれている男なのだが、その病状がこれ以上赤裸々に描かれることはない。彼らもまた、「空気人形」の新鮮な眼で観察された、世界の一部にしか過ぎないのだ。

東京の辺境たる水辺

板尾のアパートやビデオショップは、中央区湊あたりで撮影されている。高橋昌也演じる元代用教員と出会う川沿いのベンチや、高架下の公園も湊周辺だ。銀座や築地にもほど近いこの辺りは、エアポケットのように開発が進んでいない地域で、低層の住宅や古い商店が混在している。隣接している隅田川もほぼ海に近づいてきているあたりで、川や海や運河などの水辺に囲まれている地帯だ。

井浦と「空気人形」がデートするのは、お台場のレストランや海浜公園だ。板尾も通勤にゆりかもめを利用している。東京ビッグサイトが展示会場として定着し、ZEPP TOKYOで海外アーティストのライブが行われても、このあたりが臨海「副都心」と呼ばれることはない。ゆりかもめやりんかい線などの交通機関が整って20年以上たつが、このあたりは未だに「埋め立て地」という名の辺境だ。

古い水辺である中央区湊も、新しい水辺であるお台場も、人の活躍する気配の少ない、東京の辺境だ。生命力の強くない「空気人形」には、水辺の優しさが環境的に必要であり、新宿や渋谷のような、猥雑な人間の活力にじかに触れさせるのは、少しかわいそうだということなのだろうか。

 

是枝監督のスタンス

是枝監督のフィルモグラフィーには、家族をテーマに描いた作品が多い。家族というコミュニティーが崩壊しつつあるさまを描きながら、その再生を希求する真摯さが、観客の共感を呼んできた。

「そして父になる(13)」では、出生時に病院で子供を取り違えられた二組の夫婦が、子供を再交換する話だ。福山雅治はその一方の父親だが、一見どちらの子供にも冷淡な彼が、実は大きくとまどい、自分自身の存在まで揺さぶられながら、再度父に「なって」いくさまが素晴らしかった。

「奇跡(11)」では両親の離婚により離れて暮らすことになった兄弟が、明るい活力でその境遇を乗り越える様を描いている。

これらの家族映画とは対照的に、「空気人形」の登場人物は、みな孤独に一人で暮らしている。中央区湊にもお台場にも、地域のコミュニテイーなどない。住人が出会うのは、通勤時に、ゴミ集積場にゴミを捨てるときだけだ。

しかし、こんな孤独も是枝は決して否定していない。孤独な水辺の街を描くカメラは、それほど深い愛情に満ちている。もしかすると是枝は、家族の再生よりも、この孤独のほうを、より慈しんでいるのかもしれない。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

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