シネマ執事

山田洋次監督「男はつらいよ」1969 レビュー

庶民が織りなす世間

松竹映画ホームドラマの本流は、小津安二郎から山田洋次に引き継がれた。小津安二郎もまた、家族や肉親の情愛をテーマとしていたが、人間同士が本当にわかりあえることなどない、という諦念を根底に据えていた。人が人を疎ましく思う気持ちを拭い去ることは不可能であり、ディスコミニケーションが常態であることを前提として、家族生活を営んでいかなければならない。その哀歓をユーモアを混じえて表現したのである。

山田洋次は、日本の庶民に信頼を置くことからスタートしている。もちろん全ての人間関係がうまくいくわけではないが、すれ違いや別離の淋しさは、わかちあうことができる。個対個の軋轢は、節度を持った周囲の人々が絶妙に調和してくれる。人間は愚かなのだが、伝統にしっかりと支えられた世間は、そんな愚かさも認め、愛してさえいる。

「男はつらいよ」シリーズは1969年に始まり、1995年に終わった。1969年当時には残存していた庶民が、時を経て消滅して行く過程に抗い続けた作品群だったともいえる。

渥美清が体現し続けた、庶民とアウトローの境界にこそ、日本の庶民文化の深淵が存在したのだが、車寅次郎は、徐々にリアリティのない存在となり果てていく。しかし、山田洋次と渥美清は、執念と惰性によって、無理矢理フィクションとして成立させ続けたのである。

 

圧倒的なドラマツルギ―

シリーズ第1作「男はつらいよ」は、20年振りに柴又へ帰ってきた車寅次郎が、妹のさくらや叔父叔母と再会するところから始まる。さくらを演じる倍賞千恵子は当時まだ20代。60年代風のファッションとメイクがキュートである。やがて物語は、倍賞と前田吟の純朴なラブストーリーを主題として展開していく。渥美は前田の恋心に気づき、恋のキューピッド役を買ってでようとするが、不器用な振舞いを重ね、二人の間に誤解をまねいてしまう。しかし、もともと相思相愛の二人は、そんな誤解を乗り越え、結ばれる。

予定調和な筋書きではある。しかし、圧倒的なドラマツルギーの強度によって、この予定調和が観客の感動を呼び、心を揺さぶる。若い二人が互いに好意を持っていることは、それまでのシーンでも仄めかされている。観客は恋の成就を応援する気持ちになっている。しかし、渥美が余計なことばかりして、それをぶち壊す。観客は彼の失態にがっかりするが、愚かなる寅次郎の性格は大好きなので、憎めない。事態は決して深刻にならないレベルで迷走するが、誰もが予想したどおり、微笑ましい恋愛は成就し、観客は「とらや」の面々や渥美と一緒に、まるで自分の家族のことのように祝福する。

 

異端児への視線

わかりやす過ぎる予定調和を「とらや」のおいちゃん、おばちゃん、タコ社長らのレギュラー陣と共有する。観客は彼等と感情を共有することによって、柴又の庶民に同一化することを仮想体験する。

しかし、車寅次郎の人格に感情移入することはできない。寅次郎は、あまり仕事もせず、昼間からゴロゴロしている。皆に悪態をつくし、素行も良くない。酒に酔って失態を見せる。結婚もせず、家族も持たず、自分の住居もない。気の向くまま放浪するアウトローだ。恐らくは税金も年金も払ってない。アウトローなりの世間知を垣間見せることもあるが、一般常識など全く持ち合わせていない。

ふつう、賢明で堅実な庶民はこんな男を排除するのではないか? 実際に森川信も太宰久雄もしょっちゅう寅次郎と衝突する。陰口も言う。

しかし、彼等は心の底では、寅次郎を愛している。異端児の堕落した人生の在り方を認めてはいないが、どこかで許してもいる。もちろん寅次郎は、ただ単に駄目な男ではなく、人の心の機微を誰よりも知っているし、繊細で優しい一面もある。社会人としては失格な男でも、むしろ踏み外した人生を送っている男だからこそ、人生の辛さを良く知っているのだし、社会にはこういう異端児も必要なのだ。

 

日本映画重鎮の軽み

本作公開時、渥美清41歳。俳優として脂がのっていた時期だろう。セリフ回しや、身体の所作も、いちいちやること全て面白い。笑いを誘う。コメディアンとして完成の域に近づいている。

中堅の渥美が暴れまわり、若手の倍賞と前田もキュートだが、日本映画の重鎮がこの映画の存在を分厚くしている。

笠智衆は、柴又帝釈天の住職だ。子供のころから寅次郎をよく知っている。本作では娘の光本幸子と奈良に旅行中、寅次郎とバッタリ出会い、楽しいひとときを過ごす。

笠は、凡庸で実直な男として、小津安二郎映画のアイコンであったわけだが、ここでも、真面目で実直な人柄が、寺社建築のように歴史を経て滋味を発する味わいを添えている。

笠は寅次郎に紋切り型の説教を言うだけで、彼らの間に深い心の交流などない。寅次郎の娘への恋心にも気づいていない。しかし、実徳な置き物は、茫洋と存在するだけで、日本の伝統が持つ、ある種の軽みを体現している。

志村喬は、前田吟の父親の大学教授を演じている。黒澤明映画のアイコンであった志村は、学者や医師などのインテリを演じてきた。笠が真空の存在なら、志村は、明治維新以降、日本のインテリが西洋文明を取り込んできた、知の集積の象徴である。

インテリの知の集積と、庶民の世間知は、あまり仲がよろしくないものだ。前田/倍賞の結婚式に現れた志村に、渥美は当初反感を抱く。しかし、自らの失敗を潔く認め、世間知の素晴らしさを礼賛する志村の率直さに感動し、心の交歓が産まれる。

 

行為しない風来坊

それにしても、この作品での車寅次郎=渥美清は、本当に面白い。柄が悪いのだが、底抜けにお人よしで、ちょっとしたことですぐ調子に乗り、とにかくやたらと騒々しい。かと思えば、恋愛に関することには、実は奥手で、言いたいことをはっきり言えない。また、思い悩む姿にも何故か愛嬌があり、怒っていてもあまり怖くはない。

こんな男が父親や夫だったら、大いに困るが、たまに現れる親戚の小父さんとしては、滅法面白いだろう。まだ人生に自信を持てない若い男からすれば、酒を酌み交わして、一緒に馬鹿話をするのも、随分と楽しいことだろう。

映画のヒーローと言えば、戦争映画で重い決断を遂行する軍人、時代劇で悪人を裁く奉行、明晰な頭脳で完全犯罪を目論む犯罪者、迷宮入りしそうな事件を解決する探偵など、社会と格闘して、超人的な胆力を発揮する行為者だ。命がけで行為を遂行する男の逞しさ、ロマンに観客は魅了されてきた。また、青春映画であれば、まだ行為者になりきれない青年の成長過程における試行錯誤を、甘く苦く描くだろう。

しかし、車寅次郎はもはや青年ではない。それなのに責任ということから逃れ続けていて、行為といえるほどのことは何も行わない。

山田洋次は、この風来坊の造形に、様々な批評を託したかったのだろう。市井に生きる人々は決してヒーローではない。それ程頭が良いわけでもなく、仕事の能力にずば抜けているわけでもない。庶民の平凡な暮らしの積み重ねにこそ、社会の深みがある。

更に、庶民の平凡な暮らしさえできない、風来坊もたくさんいる。すねかじりや穀つぶしといわれた人たちは、定住を嫌い、流れ歩き、寺社の周辺で商売や芸事を行ってきた。

庶民は、彼等の存在も認め、様々な軋轢もありながら、日本の文化を育んできた。

日本の芸能の大きな流れから登場した、渥美清という突出した才能が、風来坊の完璧な造形を完成させ、ここに喜劇の究極の傑作が誕生したのだ。

ABOUT THE AUTHOR

佐々木 隆行
佐々木隆行(ささきたかゆき)

1969年生まれ。広島県出身。青山学院大学中退。IT企業勤務。
最初の映画体験は「東映まんがまつり」。仮面ライダーがヒーローだった。ある年、今回は「東宝チャンピオンまつり」に行こうと一旦は決意したものの、広島宝塚へ歩く途中に建っていた広島東映「東映まんがまつり」の楽し気な看板を裏切ることが出来なかったことを痛切に覚えている。

COMMENTS

コメントはまだありません。

FacebookでシェアTwitterでシェアTumblrでシェアPinterestでシェア